カトリック高蔵寺教会報

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2016626

 

コ ル ベ

 

    カトリック高蔵寺教会

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神のいつくしみに応えよう!

 

主任司祭 椎尾匡文

 

昨年の1213日に開幕した「いつくしみの特別聖年」も半年が過ぎました。開幕に際して、教皇フランシスコが出された『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』を読まれた方も多いと思います。この中の69番で聖書における「神のいつくしみ」について説かれており、67番では旧約聖書、89番では福音書のいくつかの箇所が引用されています。ただし、そこでは「いつくしみ」と「あわれみ」が同義に考えられていますが、ここでは「契約」の視点から「いつくしみ」と「あわれみ」を区別して考えてみたいと思います。

 

1)旧約聖書における神のいつくしみ

 

新共同訳で「慈しみ」と訳されるのはヘブライ語の<ヘセド>です。<ヘセド>は「契約関係用語」に属する語です。「契約関係用語」とは、契約による神と人、人と人の関係を表す用語です。<ヘセド>は義なる関係への力を表現します。それは聖書的な愛であり、命を与え、支え、生かす力です。ここで言う「義」とは、神(ヤーウェ)とイスラエルが契約によって互いを「あなた(たち)はわたしの民」「あなたはわたし(たち)の神」と言い交わしたことによって生じる当事者間の「法的忠実さ」を表します。契約関係は双方向なので、「神が人を慈しむ」に対応する「人が神を慈しむ」関係もあるはずですが、日本語としては無理があるので、通常使われません。「契約関係用語」については太田道子さんのわかりやすい解説があるので(『新共同訳旧約聖書注解96-97ページ)、それをお読みください。

 ここでは参考として、いくつかの用例を見てみましょう。

 

-主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、

     慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。(出34:6-7

 

 

 「慈しみ(ヘセド)とまこと(エメツ)に満ち」は「憐れみ深く(ラハミーム)恵みに富む(ハーナン)」と並行して使われています。「慈しみ」(ヘセド)と対を成す「まこと」<エメツ>は<アーメン>と同根で、「確固とした」の意です。これも契約関係用語です。「憐れみ深い」(ラハミーム)は<レヘム>(胎)に由来する語です。これと対を成す<ハーナン>は「選びの恵み」を表します。

 

-とこしえの慈しみをもってあなた(イスラエル)を憐れむとあなたを贖う主は言われる。(イザ54:8

 

-主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。(哀3:22

 

 イザヤ書では、「慈しみ」(ヘセド)は「憐れむ」(ラハミームの動詞形)と並行して使われ、哀歌では「憐れみ」(ラハミーム)と並行して使われています。

 

 このような用例から、<ヘセド>と並行する<ラハミーム>も契約関係用語の意味領域で捉えるべき語であることがわかります。日本語の「いつくしむ」「あわれむ」はいずれも感情表現の意味合いが強いので、意味を取り違えないために、「契約」について正しく理解する必要があります。

 

 

 

 

2)新約聖書における神のいつくしみ

 

『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』89番で取り上げられる福音書の箇所では、イエスが「あわれむ」行為が注目されています。

 

1) 福音書において「憐れに思う」「深く憐れむ」と訳されるのはギリシア語<スプランクニゾマイ>です。古代世界で

  は、人間の身体部位に特定の機能を結び付けて考えていました。たとえば「心」は理性・知性の座、「腹」は感情の座と

  いった具合です。<スプランクノン>(内臓)は感情の座と見なされていました。日本語でも「腹が立つ」とか「はらわ

  たが煮えくり返る」といった表現があります。用例として、下記の二例をあげておきます。

 

  -これは我らの神の憐れみ(エレオス)の心(スプランクノン)による(ルカ1:78

 

  -慈しみ(スプランクノン)や憐れみ(オイクティプモス)の心があるなら...(フィリ2:1

 

 

  福音書で「憐れに思う」「深く憐れむ」のは常にイエスです。

 

  -イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ(マコ1:41

  -また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた(マタ9:36

  -大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた(マタ14:14

   

  -主はこの母親を見て憐れに思い(ルカ7:13

 

ただし、「放蕩息子」のたとえの中では「父親」(神の隠喩)が主語になっています。

 

  -父親は息子を見つけて、憐れに思い(ルカ15:20

 

2)「憐れむ」と訳されるのは<エレエオ>(動詞)です。

 

 -主があなたを憐れみ(マコ5:19

 -わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか(マタ18:33

 

3)「憐れみ深い」と訳されるのは、<エレエモン>(形容詞)です。

 

 -憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける(マタ5:7

 

 ここで「憐れみを受ける」と訳されるのは<エレエオ>(動詞)の受動形です。

 

4)「憐れみ」と訳されるのは<エレオス>(名詞)です。

 

 -わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ9:13

 cf. わたしが喜ぶのは愛(ヘセド)であっていけにえではなく(ホセ6:6

 -その憐れみは代々に限りなく(ルカ1:50

 cf. 主の慈しみ(ヘセド)は世々とこしえに(詩137:17

 -憐れみをお忘れになりません(ルカ1:54

 cf.慈しみ(ヘセド)とまこと(エメツ)を御心に留められた(詩98:3

 

 1)~4)の用例から、イエスの「あわれむ」行為は、一般的な<エレエオ>ではなく、<スプランクニゾマイ>と

考えられます。それは激しい感情の動きを表しています。

  福音書の中で、イエスの激しい感情発露を表す語として、「厳しく命じる」とか「憤りを覚える」とか訳される

 <エンブリマオマイ>があります。この語は「馬が鼻息荒くいななく」ように激しく怒るさまを表します。

 

 -イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく命じて(マコ1:43

 -イエスは心に憤りを覚え、興奮して言われた(ヨハ11:33

 -イエスは、再び心に憤りを覚えて(ヨハ11:38

 

 マコ1:43も「憤りを覚えて」としても意は通じる箇所です。

 

 イエスの激しい感情の矛先は、神のいつくしみの本来の対象である「神の民」(契約共同体)が壊れている現実に向けられています。それは、旧約の預言者たちがそうであったように、壊している人たち、すなわち神殿を拠り所とするユダヤ教団指導者にも向けられています。しかし、その憤りは単なる怒りの感情を突き抜けて、壊された契約を回復しようとする力として現されます。福音書が伝える数々の「いやしの物語」がそれです。それは神の「いつくしみ」に対する神へのイエスの「いつくしみ」と言えます。イエスに従おうとするなら、私たちも神に対して「いつくしみ」を返さなければなりません。どのようにして返すのか?それもイエスが教えてくれます-「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)。「互い」は教会内に限定されていません。生活の場で出会うすべての人たちです。「愛する」とは、私たち一人ひとりへの神のいつくしみに応えることなのです。

 

 

 

 


カトリック高蔵寺教会の自主活動グループを紹介します

マンマ・ドルチェの会                     N・K

 

<ケーキを売って駐車場の用地を買おう>と壮大な野望を抱いて始まった、マンマ・ドルチェ(ママのケーキ)の会は、60歳代から80歳代まで、70歳代を中心に ベテラン主婦たちによって始まりました。食品にかかわる設備の衛生面、携わる人の健康面の厳しいチェクもあり、公的機関の手続等、壮年会の助けを借りました。現在は強力な助っ人、男性(他教会所属)がメンバーに加わり大活躍しています。売上金は、主に東日本大震災害の義援金、これまでに六十万円を送金しました。その他種々の行事に、バザーに出店、福信館バザーに提供、その他多くに貢献させていただいております。

また、お買い上げくださり支えてくださる多くの方に感謝いたします。

原則として、夏の3か月はお休み。定例月二回、水曜日、あとは注文に応じ回数を増やしています。冬の期間はほぼ毎週作業しています。

種類は、フルーツパウンドケーキ、オレンジピールケーキ、チョコマーブルケーキ、季節よって、クリスマスケーキ、ルシアンクッキ等柔軟に対応させていただいています。

今のところ値段も据え置きしています。最近は名古屋教区の多くの教会から注文を頂いております。 

み心に添いたいと思う私たち、そして少しでも皆様に喜んでいただければ幸いです。これからも長く作り続けたいと思っています。

ご協力いただける方は大歓迎です。これからも見守ってください

カトリック高蔵寺教会9条の会                                                    T・Y

 

当グループは従来からある「ピース9の会」(現在5グループ15名程)のメンバーを母体として教会内や一般社会に向けて、主として政治に関わる問題を「学び」「共有」「声を挙げ」ようではありませんかとして設立されたものです。両グループの名前からしても目指す方向性に大きな違いはありません。が、ピース9の会とは一応別個のグループとして存立しています。ご承知のようにピース9の会は各アメーバーグループが各々の判断で独自の行動をします。

当会は構成員全体で話し合って高蔵寺教会内グループとして意思表明し、自主活動としての取り組みをするようにしています。

とは言うものの決して難しい取り組みをしようというのではなく、キリスト者として平和を希求することを前提とした者の集まりです。

日本国憲法の前文に書かれた崇高な平和への思いと9条の戦争放棄の理念に賛同される皆さまの参加をお待ちしています。

介護予防体操教室 「ミモザの会」   M・A

 

愛知県は健康寿命、男性は全国1位 女性は3位(2014年)と言われています。春日井市の呼びかけに答え、これからも出来るだけ現状を維持し、自立した生活を目指し1月からマリア館で18名が参加して始めました。

地域の皆様も歓迎いたします(1、第3水曜日13001400)講師の先生の指導のもと、楽しく、マイペースに体操しています。

日本語勉強会                M・T

 

教会で、日曜日に日本語勉強会を始めました。

昨年5月、定年退職を機に、日本に関わる外国人に日本語を教えながら、日本の文化、習慣、ビジネスマナーを伝え、違いを互いに認識し、かつ日本を好きになる手助けができたらと、名古屋駅前の専門学校、日本語教師養成講座に1年間通いました。途中、10月の難関?日本語教育能力検定試験も合格し、今年3月の外国人実習を終え、修了しました。継続して非常勤で勤めていた会社も、今年5月で完全に退職しました。これで、ようやく日本語教師に専念できる時間と能力ができました。

今年4月からは名古屋の日本語学校で教師として、11人の学生のクラス担当として仕事を始めました。その生活リズムが少し落ち着いたので、神父様に相談し、教会の外国人信徒のみなさんに、日本語を真剣に勉強するなら一緒にやりませんか、と声をかけたところ、10人ほどの希望者がありました。

彼らは、聞くことはあまり苦労しないが、きちんと話をすること、書くこと、漢字の読み、に困っていて、これまでも勉強はするのだけど、うまくできないということでした。

そのような要望に合わせて、カリキュラムを作り、一旦12月を区切りにしました。

勉強会は12時間、仕事や家事の都合があるので、時間は日曜日ミサ後11:1013:10に決めました。

初回65日は、日本語の勉強のしかたと、発音、文法の勉強をしました。時折、神父様の説教の内容や生活で困ったことなども取り上げて、一緒に考えていきます。

それぞれ日本語レベルは違いますが、日本人とのコミュニケーションと生活をさらに楽しめるようになっていただきたいなと思います。

日曜日は、教会行事もあるため、行事のない日を選び、月23回の勉強会を予定しています。

私たちの応援をぜひよろしくお願いします。

カトリック高蔵寺教会 教会報128号(2016年6月26日発行)より