カトリック教会はマリアについて何を教えているか(続)

            主任司祭 椎尾匡文

 マリアに関して、『コルベ134号』では聖書の教えを概説しましたので、今回は教義について解説します。文中の「DS」はデンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』の略号です。

◇教会の教えにおけるマリア

(1)古代教会

 ・使徒信条であるローマ信条(DS.10)には、「処女マリアから生まれ」、ニカイア・コンスタンチノープル信条(DS.150

  には、「処女マリアから受肉し」という表現が見られる。

 ・使徒教父のユスティヌスやイレネウスは、「新しいエバ」という言い方をする。

 ・新約外典の『ヤコブ原福音書』は、マリアの両親の物語を伝える。

 ・マリアのとりなしを願う祈りは3世紀から始まった。

 ・マリアに対して、テオトコス(θεοτόκος)=「神を生む者(生神女)」、アエイパルテノス(άειπαρθένος)=「永遠の処女」、アルカントス(άχράντος)=「汚れなき者」という称号が使われるようになる。

 ・エフェソ公会議(431年)

   ネストリオスは、「聖なる処女は神の聖母(テオトコス)ではなく、キリストの聖母(キリストトコス)と呼ばれなければならない」(DS.251d)と主張した。これに対して、アレキサンドリアのキュリロスは、「処女聖マリアが神の母(テオトコス)であることを宣言しない者は排斥される」(DS.252)とした。エフェソ公会議はこれを宣言する。

 ・カルケドン公会議(451年)もキュリロスの主張を受け入れ、イエスは「神の母処女マリアから生まれた」(DS.301)ことを宣言した。

 ・第二ニカイア公会議(787年)

   8世紀初めに起きた聖画像の破壊運動に対して、聖画像崇敬に関する教会の教えを公布した。その中で、「聖にして汚れなき神の母」の聖画像について言及されている(DS.600)。

 ・46世紀のギリシア教父たちは、マリアをほめたたえる説教を残している。

(2)中世

 イエスを厳しい審判者ととらえる傾向が強まったため、その代償としてマリア信心が盛んになった。このような信仰の偏ったありかたが一つの原因となって、宗教改革が起きた。しかし、ルター自身はマリアに対する信心を持っていた。

(3)近代~現代

 19世紀には、再びマリア運動が盛んになったが、こうした傾向にブレーキをかけることになったのは、20世紀に起きた次の四つの運動である。

 ①典礼運動はミサを中心とした信仰を強調した。

 ②聖書運動は、新約聖書全体の中でマリアについての言及は多くないことを確認した。

 ③教会一致運動は、マリアを信仰上の共有点としなかった。

 ④教会論は、「マリアは恵みを受けてそれに応える方であり、それは教会の姿でもある」ことを主張した。第二バチカン公会議も、マリアを教会の原型ととらえている(『教会憲章』8章)。

◇「救いの業」への協力に関する神学的理解

 1)人間の救いは、三位一体の神との一致にある。

 2)神の自己譲渡の中心はイエスである。

 3)そのような神との一致は、信仰・希望・愛によって可能となる。

 4)マリアは、神の救いを受け入れた人々の内で最も秀でている。そのユニークさは、神の子の受肉に対する“フィアト”

  (受諾)である。

 5)救いの連帯性において、神の恵みによってすべての人は、互いに結ばれ、助け合うことができる(生きる人も死んだ人も)。このような働き(取りなし)において、マリアは最もすぐれている。

 6)マリアに対する尊敬、感謝、信頼が求められる。

 7)マリアに対する崇敬は大切であるが、それを誇張してはいけない。たとえば、マリアが救いを決めるかのように考えたり、私的啓示を信仰の中心とするようなことがあってはならない。

◇「無原罪のやどり」の教義

 マリアのやどりは、東方教会では78世紀から「汚れないやどり」として祝われており、西方教会では12世紀から祝われるようになった。

 聖書は、「マリアがその誕生の時から原罪の汚れを受けていなかった、すなわち、無原罪である」とは言っていない。マリアがアルカントス(άχράντος)であるということについては、時代によって異なった理解が見られる。

 アウグスティヌスは、マリアには原罪がなかったとは言っていないが、自罪はなかったと言っている。

 ボナベントゥーラやトマスによると、マリアには原罪があったが、母の胎内で聖別され、原罪が取り除かれたと言う。

 ドゥンス・スコトゥスは、マリアはイエスの功徳によって、前もって無原罪のものとされたのであり、その意味でマリアも贖われた者であると言う。このような理解は、フランシスコ会出身の教皇たちの支持を受けて、次第に教会の中に広まっていった。これに対して、ドミニコ会の神学者たちは最後まで反対したが、19世紀には教会全体の確信となった。

 シクストゥス四世は、教皇令『グラヴェ・ニミス』(1483年)において、マリアの無原罪の受胎について、賛成説も反対説も異端ではないとした(DS.1426

 トレント公会議は、『原罪についての教令』(1546年)の中で、神の母マリアに原罪があったと宣言するつもりはないと言っているDS.1516)。

ピオ九世は、聖母マリアの無原罪のやどりを教義として宣言したいと思い、全世界の司教に意見を求め、その大多数の賛成を得た。こうして1854年、聖母の無原罪のやどりが教義として宣言された(DS.2803)。

◇「被昇天」の教義

(1)古代

 古代教会は、マリアは天においてイエスとともに救いにあずかっていることを信じていた。しかし、マリアの死については、何もわかっておらず、エピファニオスなどの教父たちも、マリアの死については何もわからないと言っている。ところが、56世紀になると、マリアの最期についての伝説的な話が生まれた。それは、イエスが来て、マリアの霊魂を抱いて天に昇ったとか、大天使ミカエルが来て、マリアのからだを墓から取り上げて楽園に連れて行き、からだに霊魂を入れたとか、使徒たちがマリアの最期をみとり、墓に葬ったが、墓は空となっていたとかいう話である。このような物語は、イコン芸術の題材として取り上げられている。

(2)典礼に見られる「被昇天」

78世紀には東方教会において、マリアの昇天(analēpsis)が、815日に祝われるようになった。また、この時代のマリアについての説教-たとえば8世紀初めのダマスコのヨハネの説教-の中に、マリアの被昇天についての言及が見られる。西方教会においてもマリアの昇天(assumptio)は知られていたが、それに対する理解はさまざまであった。ヒエロニムスの説教と言われているもの(実はそうではないが)の中では、マリアの被昇天はむしろ否定的に述べられている。

(3)近代

 16世紀には西方教会でも、マリアの身体的な被昇天がはっきり祝われるようになり、それは芸術の題材として取り上げられている。マリアの被昇天とは、マリアのからだと魂の両方がイエスの復活にあずかっていると理解されている。

(4)1920世紀前半

 この時代には、マリア信心が盛んであり、そのような運動を背景として、ピオ九世は、1854年に大勅書Ineffabilis Deusによって、聖母マリアの無原罪のやどりを宣言した(DS.2800-2804)。また、マリアはすべての恵みの仲介者である(もちろんキリストに依存した仲介者である)ことを宣言するように求める運動も起きた。マリアに対する深い信心を持っていたピオ十二世は、1950年に教皇令Munificentissimus Deusを公布して、聖母マリアの被昇天を宣言した(DS.3900-3904)。それによると、「マリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理である」(DS.3903)。このことは、イエスとともに歩まれたマリアの姿から、聖霊の助けによって、神の民が読み取ったものである。

※「無原罪のやどり」と「被昇天」の教義は、キリスト教の中心的な教えではない。「被昇天」については終末論との関連の中で考えられるべきであろう。