ラテラン教会の献堂

福音=ヨハネ2:13-22


 「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:21

 

 建築の歴史は、キリスト教誕生以後は、教会の歴史と言ってもいいほどで、教会堂以外の建築物が建築史に登場するのはようやく世紀に入ってからのことである。ヨーロッパ・キリスト教は、その歴史のなかで、教会建築に莫大なエネルギーを注いできたわけである。

 しかし、イエスの教えの根本にあるのは、絶対的な存在である神と、その前にあって相対的な存在である人間とを結びつけるために、いわば人為的に作られたものを絶対化することに対する批判であったと言えるだろう。それが「律法批判」であり、「神殿批判」であった。ユダヤ人にとって、これらのことは神の民のアイデンティティを確認するものであり、それらを否定することは、自らの存在を否定することだった。しかし、イエスは神との人為的な仲介物によらないで、神との直接的な交わりを回復しようとしたのではないか。

 紀元70年、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊された。このことを記憶に留めていたヨハネ共同体の信者たちは、今日の福音にあるような生前のイエスの言葉を思い起こし、破壊された神殿と、十字架の死を経て復活されたイエスを対比したにちがいない。

 20年ほど前、ヘブライ大学のS.サフライ教授が来日されて、「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教の世界」という連続講演が東京、大阪、福岡で行われた。サフライ氏は敬虔なラビとして、安息日を厳守し、食事規定もしっかり守っておられ、そのため主催者は大変な苦労をしたそうです。しかし、サフライ氏は講演のなかで、「犠牲を捧げることよりも、神の教えがどこにあるかを探求することの方がより重要であり、したがって、神殿の再建は大事なことではない」と言われました。

 一人ひとりのキリスト者が、神の教えがどこにあるかをそれぞれの生活の場で探求するという営みのなかにこそ「教会」はあるのだ。