主の変容(A年)

福音=マタイ17-1-9


「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:2

 

 変容の出来事の時間設定は、朗読聖書では省略されているが、マタイ福音書本文では「六日の後」(17:1)である。つまり第七日、安息日の出来事である。変容の出来事の文脈を見ると、最初の受難予告(16:21)とそれを聞いたペトロの反応および弟子たちへの信従の教え(16:22-28)と、2回目の受難予告(17:22-23)に挟まれている。ここでの「六日」は日常のときであり、「第七日」は神の啓示を受ける非日常のときである。場所もそれにふさわしく「山」である。モーセの場合はシナイ山、エリヤの場合はホレブ山である。両者とも神との契約の仲介者である。変容の場面に彼らが登場するのは偶然ではない。

 弟子たちは「日常」の時空を離れて「非日常」の時空へとイエスによって連れ出され、それに従う。それはキリストの秘義への道である。山上で弟子たちは、イエスのうちに神の栄光の反射を見る。そして、イエスが新しい契約の仲介者であるという神のことばを聞く。神による救いの歴史における究極(エスカトン=終末)がイエスにおいて人間の姿をとって現れている。イエスへの信従は、終末的な神の近在への導入であり、神の支配という未来に約束されている神との対面の始まりなのである。

 しかしこれがイエスへの信従のすべてではない。この道は光明の山を下りて、ふだんの「六日」のつらい現実へ、苦難の平地、苦難をわが身に引き受けねばならぬ平地へと戻っていく道につながっているからである。だからこそ下山に際してすでに受難が語られている。「キリストの秘義への道」(上昇)と「キリストの殉教への道」(下降)は、本質的に切り離せないものなのだ。秘義の経験と殉教の経験は信従において一つに結合されている。イエスに従うことは神の近くの光のなかに歩み入ることだが、そのあとまたイエスの受難の闇に赴くことでもあると、イエス変容の出来事は語っている。殉教抜きの秘義は魂のひたすらな上昇として愛を欠くことになり、秘義抜きの殉教はひたすらな下降として希望を欠くことになる。