受難の主日A

福音=マタイ27:11-54


「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54

 

 福音書の受難物語は詩編22をその枠組みとしている。詩編22は「嘆きの詩編」の類型に属する。「嘆きの詩編」と言っても、ただ嘆いているだけではなく、そこには必ず「嘆き」から「信頼」、「賛美」へという動きが見られる。詩編22では2-22節が「嘆き」の部分であり、それ以降が「信頼」の部分を成す。22節と23節の間に、「嘆き」から「信頼」に変わるような何らかの体験が隠されていると言えよう。

 「信頼」の部分の冒頭23節に「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え」とある。ヨハネ福音書のなかで、イエスご自身が「わたしは兄弟たちに御名を現した/知らせた」と語る(ヨハ17:6,26)。私たちにとって生き方の模範がイエスであるなら、詩編22の「わたし」をよく知らねばならない。

 「わたし」は苦難に陥っている。彼の苦難を描く2-22節は、三つの嘆きと、その嘆きの言葉そのものから引き出される三つの信頼の祈りが交互に積み重ねられて構成されている。三つの嘆きを通して見られるのは、聖書に記録されている人々のうちで、みことばを語り伝えるがゆえに迫害される人々や、他に代わって苦しみを担っている「主の僕」と呼ばれる人々の姿である。そのなかで特に印象的なのが、第二イザヤの「主の僕」の姿だ(第一朗読は「主の僕の歌」の第三歌)。

 この苦難の人が御名を語り伝えようとした相手は誰だったのか。それは私たちが誰に御名を語り伝えればよいのかを教えてくれる。ここでは、①集会(23-27節)、②「国々の民」(28-29節)、③「命に溢れてこの地に住む者」、「塵に下った者」(30ab節)である。①集会とは元来、神の民としてのイスラエル全体を示す用語であるが、ここでは新しい賛美の共同体、新しいイスラエルとして呼びかけられている。②この呼びかけは自分の民を越えて、全世界に広がらなければならない。③生者も死者も神の賛美の共同体に属することが生の領域にあることで、そこから断たれることは死の領域への追放と見なされる。「塵に下った者」にも賛美の呼びかけをすることによって「わたし」は自ら、体は死の領域にありながらこの領域を超越し、神を賛美することを示したのではないか。イエスは城壁の外で復活し、生死の境界を打ち破って、新しい命をもたらされた。詩編22の「わたし」はまさにイエスの予型と言えるだろう。

 「御名を語り伝える」(30c-32節)。「名」とは、その名を持つ人自身、その力と業のことだ。したがって、御名を語るとは、神の「恵みの御業を告げ知らせる」(32節)ことに他ならない。それはすでに2-22節において、三つの信頼のなかで表明されている。神とイスラエルの交わり(救いの歴史)、生への召し出し(創造)、救いを求めること、である。

 詩編22の「わたし」の上に自分を重ねてみれば、今日の私たちも自分のあるべき姿を見いだすことができるだろう。主の受難を自らの積極的な生き方の模範としたい。

(参考文献:太田道子「わたしたちは兄弟たちに御名を語り伝え-詩編二十二編に学ぶ福音宣教-」、『世紀』1987年1月号、PP.67-79

-「わたし」の生き方に連なる人たち-