受難の主日(B年)

福音=マルコ15:1-39


「それは、あなたが言っていることです」(マルコ15:2

 

 マルコ福音書の「受難物語」の特徴は、イエスの沈黙である。ピラトやローマ兵たちは、イエスのことを「ユダヤ人の王」と繰り返し呼ぶ(2,9,12,18,26節)。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、王は存在しなかった。ローマ人が考える王とは、政治的な力と権威を持つ者のことであり、それがユダヤ人の王ということになれば、当然ローマに対する反逆者を意味した。彼らにとっては、イエスが政治的な危険人物であるかどうかだけが関心事だった。

 一方、ユダヤ人たちは、十字架上のイエスを「メシア、イスラエルの王」と呼ぶ。神の民としてのイスラエルは、長年、いろいろな国の支配下に置かれてきた。こうした状況にあって、ユダヤ人たちは、彼らの王国を復興するダビデの血を引く者、すなわち「メシア」を待望していた。

 このように考えるなら、「王」と「メシア」という呼称には、ローマ人、ユダヤ人それぞれの価値観が象徴的に表されていると言える。ところが、彼らの前に現れたイエスは、ローマ人が考える「王」でもなく、ユダヤ人が待望する「メシア」でもなかった。そこで彼らはイエスを侮辱して、「王」、「メシア」という言葉を投げつけた。

 これに対して、イエスはただ一言、「それは、あなたが言っていることです」と答える(2節)。イエスはこれ以外何も語らず、終始沈黙を続ける。このイエスの沈黙は、神への絶対的な信頼をどんな言葉よりも力強く示す。詩編62編の詩人は、苦難にあって、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と信仰告白する(2節)。イエスはゲッセマネで、これから直面する受難の意味を神に何度も問うたかもしれない。だが、受難のとき、神は沈黙を守る。今やイエスは、この神の沈黙のなかに自分の全存在の沈黙をもって入り込もうとしているかのようだ。

 イエスの最後の言葉は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」である(34節)。これは詩編22編の冒頭の言葉だ。22編全体から考えるなら、この言葉は最終的には神への信頼に向かう。それはただ神への信頼を表すだけではなく、イエスがどのような意味で王なのかをも表す。それは私たちに福音宣教のあり方を教える、イエスの最後のメッセージでもある。