四旬節第1主日(B年)
福音=マルコ1:12-15
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(マルコ1:13)
聖書において、数には様々な象徴的意味がある。そもそも数はヘブライ語のアルファベットによって書き表すので、その文字からの連想が数に象徴的な意味を持たせることになったのだろう。
40という数は、アルファベットのメームで表す。このメームで始まる言葉の一つに「マイーム(水)」がある。「水」、「波」、「水の流れ」-これらは時の流れのしるしであり、「水」は「時間」とか「時代」を連想させる。この連想はさらに、「生涯四十年」、「人間の一生涯」へと発展していき、ついには「神の働きの準備」を表すようになった。
イスラエルの民が「四十日」と聞くと、様々な出来事を思い起こしたにちがいない。今日の第一朗読で語られる「大洪水」の期間(創7:4,12)、モーセが主の栄光の山シナイ山に登り、神の近くに留まった日数(出24:18; 34:28 / 申9:9)、あるいは預言者エリアがホレブの山をめざして歩き続けた日数(王上19:8)など。
これらのいずれの出来事を見ても、それらは、神が人間に対してご自分の救いの業の準備をさせた出来事であった。それらの中で、イスラエルの信仰の起源であると同時に根本となった出来事は、「荒れ野の四十年」である。神の導きによってエジプトを出たイスラエルの民は、約束の地に入る前に、荒れ野で四十年間、神からの教育を受けた。「神ならぬものに頼って生きる」場である「エジプト」を出て、「神のみに頼って生きる」場である「約束の地」に入るためには、それにふさわしい生き方を身につけねばならなかった。つまり、「荒れ野の四十年」とは、人間が神のみに頼って生きることを学ぶ期間を意味する。
ヨルダン川で洗礼を受けたイエスは、宣教活動を始める前に、荒れ野で「四十日」の時を過ごした。洗礼が、イエスにメシアとしての使命を自覚させる出来事であったとするなら、「荒れ野での四十日」は、この使命の具体的な実現である宣教活動のやり方をイエスに決断させる出来事であったと言える。そこで「サタンからの誘惑を受けた」という表現によって意味されていることは、先程述べたような旧約聖書の背景の中で考えるならば、神のみに頼って生きることを改めて確認したということである。
私たちも毎年、復活祭の前に四旬節と言われる「四十日」を過ごす。これは元来、復活徹夜祭に洗礼を受ける人たちの準備期間であったが、後に復活祭を迎えるための準備期間となった。今日の福音を通して語られる「四十日」の意味をしっかり受け取って、四旬節を私たち一人ひとりが「神のみに頼って生きる」ことを改めて自覚する時としたい。
カトリック高蔵寺教会