四旬節第2主日(C年)
福音=ルカ9:28b-36
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)
神は世界を根底から支えて人間の歴史を常に導かれるが、他方ですべてを人間の手に委ねておられる。言うなれば、神の働きは人間には隠されている。神は人間の目からご自分の神秘を隠すために、ときに人間に眠りを与えられる。きょうの第一朗読では、この眠りがアブラムに与えられる。また、最初に創造された人から「彼に合う助ける者」を造るときにも眠りが与えられた(創2:21)。一方、人間の眠りはゲッセマネで弟子たちを襲った誘惑の眠りの場合もある(マタ26:40-41および並行箇所)。
きょうの福音は変容の出来事を語る。マタイとマルコではイエスが弟子たちを連れて山に登るのは、この出来事を彼らに見せるためだ。ところがルカでは、山に登るのは「祈るため」と明記されていて、変容の出来事はあたかも偶発的に起こったかのように描かれている。弟子たちが「ひどく眠かった」とは、ルカだけに見られる表現である。マタイとマルコでは、イエスは変容を弟子たちに垣間見させるために彼らを山に連れて行ったのだから「眠り」の入り込む余地はない。ところでルカでは、変容はイエス自身も予期しなかった神が起こされた突発事件なのだから、「眠気」は単に人間の弱さや怠りから生じたばかりでなく、変容の神秘を人間の目から隠すための「眠り」であったかもしれない。しかも、弟子たちは完全に眠り込むことはなく、この神秘を垣間見ることができた。垣間見ただけなので、目の前で起こった出来事の意味を知ることはできなかった。だがここに旧約の時代にはなかった新約の時代のきざしを見ることができる。今や旧約時代に救いの神秘を隠していた覆いが取り除かれようとしている。まもなく起こるイエスの十字架の出来事によって、それは人間の目の前に明らかにされようとしている。ただし、人間がこの神秘を完全に知ることができるのは救いの完成のときであり、それはまだ将来の希望として私たちの前に指し示されている。その意味で、神秘を前にして「ひどく眠かったが、じっとこらえている」弟子の姿は、この希望に向かってこの世を生きる私たちの姿と言えるのではないか。この世で私たちは神の救いの神秘を完全に知ることはできないが、襲いかかる「眠気」を振り払って、私たちに指し示された希望に向かって歩んでいこう。
カトリック高蔵寺教会