四旬節第3主日(B年)

福音=ヨハネ2:13-25


「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:16

 

 今日の福音である「宮清め」の出来事はすべての福音書が伝えるが、その配置は共観福音書とヨハネ福音書では異なる。共観福音書がこの出来事をイエスの受難のときに置いて、これがイエスに対する公然とした敵意を引き起こした事件とするのに対して、ヨハネ福音書は、イエスが宣教活動を開始する時点にこの出来事を置いている。ヨハネ福音書におけるイエスの生涯の出来事は年代順というより、多くの場合、神学的な動機に基づいて配置されている。それでは「宮清め」をイエスの宣教活動の初めに置いたのには、どのような神学的な動機があったのだろう。

 ヨハネ福音書が描くイエスの宣教活動は、「カナの婚宴」(2:1-11)の出来事によって始められる。イエスがおられる「カナの婚宴」は、上等なぶどう酒が豊かにふるまわれる終末の宴の先取りであり、メシア時代の到来を告げる出来事だった。

 この「カナの婚宴」に続くのが「宮清め」である。このイエスの行為は何か突飛で乱暴な行動に見えるが、これには旧約聖書の背景がある。ゼカリアの預言によると、神の救いが成就する「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(14:21)と言われる。神の救いが成就する時は、人間生活のあらゆる面が清められる時だと言うのだ。このように考えるなら、イエスの「宮清め」とは、救いの完成を告げる新たな時代の幕開けを宣言する象徴的な行為であったと言える。

 イエスの生まれ故郷であるガリラヤでの「カナの婚宴」の出来事と、イエスの最後の地であるエルサレムでの「宮清め」の出来事-イエスの宣教活動の開始に当たって、この二つの出来事が「新たな時代」の到来を人々に予告する。

 しかし、人々は「新たな時代」の到来を告げる「しるし」として行われた奇跡の意味を理解できない。奇跡を通して示された「新たな時代」の到来を理解しない信仰をイエスは信用しない。イエスを信じることは、単にイエスに関する事実を承認するだけではなく、自分の生き方をイエスに「任せて」決定することなのだ。「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」(23-24節)-このような信仰の在り方をめぐる問題が、ヨハネ共同体においてすでに起きていたのだろう。そしてそれはいつの時代に生きるキリスト者にとっても根本的な問題の一つである。自分の生き方を主に任せること、本当の自分を見いだし、それを生きること、それが「新たな時代」に求められている。