年間第10主日―A年

 

福音=マタイ9:9-13


「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:13)

 

 マタイ福音書8~9章で語られる十の奇跡物語において、「従う」という動詞が9回(8:1,10,19,22,23 / 9:9,9,19,27)集中的に使われており、イエスに「従う」ことがこの箇所の主要なテーマの一つであることを示唆します。

 今日の福音は次のような二つの場面から構成されます。

(1)徴税人マタイの召命(9節)

(2)①徴税人や罪人との宴会(10節)

   ②ファリサイ派の問いと、三つに区切られたイエスの答え(11-13節)

 第一場面では、徴税という権力から奉仕へと呼ばれたマタイが、ガリラヤ湖畔で呼ばれた四人の漁師(4:18-22)と同じように応答します。

 第二場面では、イエスは徴税人(律法に規定づけられた当時の社会にあって汚れた職業と見なされたユダヤ人)や罪人(律法に従わない人または従えないユダヤ人)と宴会を開きます。これに対してファリサイ派の人々(律法を遵守するユダヤ人)は異議を唱えます。イエスの宴会は、マタ8:11-12で語られる終末的宴会を思い起こさせます。宴会にあずかる「御国の子ら」は今や徴税人や罪人、東から西から来る人々(異邦人)であり、招かれた人々(ファリサイ派の人々)は外にいます(マタ22-1-14)。

 ファリサイ派の異議に対するイエスの答えは三つから成っています。

 1)ことわざ:医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

 2)ホセ6:6の引用:わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。

 3)結論:わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マタイの特徴は、ことわざと結論の間に置かれているホセ6:6の引用にあります。「憐れみ」(ヘブライ語「ヘセド」)はホセアのキーワードの一つです(ホセ2:21 / 6:4,6 / 10:12 / 12:7)。そこでは「憐れみ」は「神を知ること」(4:1 / 6:6)と並行しています。ホセアが言う「神を知る」とは、単に律法における神の啓示に精通することだけではなく、生活のなかで現れる神との特別な絆を神の要求と一致させることをも意味します。

 ホセ6:6の引用によって、第一場面と第二場面が密接に関連づけられます。マタイは、ファリサイ派の非難に反論しようとして、弟子たちのために行動のモデルを示そうとしていることを明らかにします。すなわち、「わたしに従いなさい」は次のように明らかになります。

 1)徴税人マタイの召命は神の憐れみ(ヘセド)を表す。なぜなら、これはイエス御自身の使命だからです(マタ5:17および10:34における「わたしが来た」を参照)。

 

 2)ホセ6:6の引用は、キリスト教共同体の行動規範がファリサイ派的共同体とは本質的に異なっていなければならないことを教える。キリスト教共同体の行動規範の基礎をなす「よりまさる義」(5:20)は「憐れみ」(5:7)を考慮に入れない祭儀的遵守(いけにえ)のなかには存在しません。祭儀は廃止されるのではなく、「憐れみ」の次位に置かれます(5:23-24 / 23:23-28)。真の祭儀は、「貧しい人」や「罪人」に配慮することのうちに実現されます。