年間第11主日(A年)
福音=マタイ9:36-10:8
「イエスは…深く憐れまれた」(マタイ9:36)
福音書において「憐れに思う」「深く憐れむ」と訳されるのはギリシア語<スプランクニゾマイ>です。古代世界では、人間の身体部位に特定の機能を結び付けて考えていました。たとえば「心」は理性・知性の座、「腹」は感情の座といった具合です。<スプランクノン>(内臓)は感情の座と見なされていました。日本語でも「腹が立つ」とか「はらわたが煮えくり返る」といった表現があります。
用例として、下記の二例をあげます。
-これは我らの神の憐れみ(エレオス)の心(スプランクノン)による(ルカ1:78)
-慈しみ(スプランクノン)や憐れみ(オイクティプモス)の心があるなら…(フィリ2:1)
福音書で「憐れに思う」「深く憐れむ」のは常にイエスです。
-イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ…(マコ1:41)
-また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた(マタ9:36)
-大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた(マタ14:14)
-主はこの母親を見て憐れに思い…(ルカ7:13)
ただし、「放蕩息子」のたとえの中では「父親」(神の隠喩)が主語になっています。
-父親は息子を見つけて、憐れに思い…(ルカ15:20)
「憐れむ」と訳されるのは<エレエオ>(動詞)です。
-主があなたを憐れみ…(マコ5:19)
-わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか(マタ18:33)
「憐れみ深い」と訳されるのは、<エレエモン>(形容詞)です。
-憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける(マタ5:7)
ここで「憐れみを受ける」と訳されるのは<エレエオ>(動詞)の受動形です。
「憐れみ」と訳されるのは<エレオス>(名詞)です。
-わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ9:13)
-その憐れみは代々に限りなく(ルカ1:50)
-憐れみをお忘れになりません(ルカ1:54)
以上の用例から、イエスの「あわれむ」行為は、一般的な<エレエオ>ではなく、<スプランクニゾマイ>と考えられます。それは激しい感情の動きを表しています。
福音書の中で、イエスが激しい感情発露を表す語として、「厳しく命じる」とか「憤りを覚える」とか訳される<エンブリマオマイ>があります。この語は「馬が鼻息荒くいななく」ように激しく怒るさまを表します。
-イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく命じて…(マコ1:43)
-イエスは…心に憤りを覚え、興奮して言われた(ヨハ11:33)
-イエスは、再び心に憤りを覚えて…(ヨハ11:38)
マコ1:43も「憤りを覚えて」としても意は通じる箇所です。
イエスの激しい感情の矛先は、神のいつくしみの本来の対象である「神の民」(契約共同体)が壊れている現実に向けられています。それは、旧約の預言者たちがそうであったように、壊している人たち、すなわち神殿を拠り所とするユダヤ教団指導者にも向けられています。しかし、その憤りは単なる怒りの感情を突き抜けて、壊された契約を回復しようとする力として現されます。福音書が伝える数々の「いやしの物語」がそれです。それは神の「いつくしみ」に対する神へのイエスの「いつくしみ」と言えます。イエスに従おうとするなら、私たちも神に対して「いつくしみ」を返さなければなりません。どのようにして返すのか。それもイエスが教えてくれます。
-「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)。
「互い」は教会内に限定されていません。生活の場で出会うすべて人たちです。「愛する」とは、私たち一人ひとりへの神のいつくしみに応えることなのです。
カトリック高蔵寺教会