「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:60)
きょうの福音は、イエスの旅の行く手を暗示させるようなことを物語る。「天に上げられる時期が近づく」(51節)とは、受難を経て復活、昇天に至る時が「満たされる」という意味であり、それが神の計画による実現であることがはっきりと示される。「エルサレムを目指して進んでおられたからである」(53節)とは、エルサレムへの道が人々からの拒絶の道であり、ついにはイエスを十字架の死に至らしめる道であることを表す。つまり、エルサレムへ向かうイエスの旅は受難の旅であると同時に、天への旅なのだ。しかも、このイエスの道は弟子たちが歩む道であり、さらには教会がたどる道でもある。
イエスはエリヤのように、自分を歓迎しない人々に天罰を下すようなことはしない。なぜなら、イエスのもたらす救いは、まさにこうした人間の中に生じた神への拒絶を信頼へと回復するためのものだからである。
現代社会においては福音が指し示すものとは全く正反対のものが多くの人々の心を捕らえている。「神の国(支配)」とは、人々の拒絶を通してもたらされたイエス・キリストの救いの光が人々の心を覆っている闇を照らし出すことである。そのために一人ひとりが派遣されていく。
北イスラエルが滅んだ時、人々はアッシリアに連れ去られ、他国の人たちが代わってそこに住んだ。その他国の人たちと残った人たちとの混血がサマリア人の祖先である。そのためサマリア人はユダヤ人から半異邦人と見なされた。そこでサマリア人たちはゲリジム山を聖所として独自の宗教を祭るようになった。彼らは現在もモーセの律法に基づいた独自の宗教共同体を保ち、イスラエル国内に約三百人が住んでいる。