年間第15主日A年
福音=マタイ13:1-23
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である」(マタイ13:23)
今日の福音では、「種を蒔く人」のたとえ(1-9節)とその説明(18-23節)だけではなく、その間に、たとえを用いて話す理由そのものが説明されている(10-17節)。そしてその説明の中で、イザヤ書6章9-10節が引用されている(14-15節)。なぜなら、この両者は、「民の心のかたくなさ」という点において共通した内容を持つからである。
イザヤ書においては、神は民の心を鈍くして、神を知ることができないようにする、と言われる。それは、イスラエルに下された罰と言える。つまり、神は民との間に、ある隔たりを置かれたと言えるだろう。これに対して、イザヤは神のことばを託されること(預言)によって、神と密接に結びつけられる。
マタイ福音書においては、群衆の心は鈍くなっているので、イエスの「たとえ」を悟ることができないが、弟子たちは「たとえ」によって、天の国の奥義を悟ることを許されており、ますますイエスに結ばれていく。
このような両者の共通点を認めるならば、マタイ福音書における、舟に乗ったイエスと岸辺に残された群衆という構図は、イザヤ書に見られる、神と人間の隔たった関係を象徴的に示していると言えよう。イエスと群衆の間には越えられない隔たりがある。イエスはこの隔たりを間にはさんで「たとえ」を投げかける。「たとえ」を表す「パラボレー」というギリシア語は、「パラバロー」(側に投げる)という動詞に由来する。「たとえ」を投げかけられた群衆はこれを受け止めることができない。それで彼らは実を結ぶことができない。これに対して、イエスに従う弟子たちは、天の国の奥義を知ることを許されているので、実を結ぶことができる。
マタイ福音書における「たとえ」は、内容的にイザヤ書の「預言」に対応する。しかし、マタイにおいて問われていることは、「たとえ」それ自体を受け入れるかどうかではなく、この「たとえ」を語るイエス自身を受け入れるかどうかということだ。なぜなら、このイエスこそ「インマヌエル」と呼ばれる者なのだから(イザ7:14、マタ1:23)。
カトリック高蔵寺教会