年間第16主日A年

福音=マタイ13:24-43


「天の国はからし種に似ている」(マタイ13:31

 

 マタイ131-52節は、伝承されてきたいろいろなたとえ話が「天の国」というテーマのもとに巧みに編集されている。それは次のような構成を成す。

 (1)「天の国」のたとえ(A)(1-23節)<第15主日の福音>

   1)たとえ:「種を蒔く人」(1-9節)

   2)たとえを用いて話す理由(10-17節)

   3)たとえの説明(18-23節)

 (2)「天の国」のたとえ(B)(24-43節)<第16主日の福音>

   1)たとえ:①「毒麦」(24-30節)

         ②「からし種」(31-32節)

         ③「パン種」(33節)

   2)たとえを用いて話す理由(34-35節)

   3)たとえ(「毒麦」)の説明(36-43節)

 (3)「天の国」のたとえ(C)(44-52節)<第17主日の福音>

   1)たとえ:①「畑に隠された宝」(44節)

         ②「高価な真珠」(45-46節)

         ③「良い魚と悪い魚」(47-50節)

   2)たとえの説明(51-52節)

(A)については、先週の「福音によせて」でふれたように、たとえを用いて話す理由が重要な要素になっている。(B)ではこの部分に(A)ほどの重点が置かれず、(C)ではこの部分を欠く。(A)の中心は、種が蒔かれた場所、すなわち御言葉を投げかけられた人の態度にある。「種を蒔く人」イエスは、どこでも御言葉の種を蒔くが、良い土地、すなわち御言葉を聞いて悟る人-イエスの弟子-だけが実を結ぶことができる、と言う。

今日の福音である(B)は同じ「種」にまつわるたとえだが、(A)とは話の中心が異なり、その中心は「天の国」の実現過程にある。(A)から(B)への内容的つなぎは、種とは「御国の言葉」であること(18節)と、「世」の妨げ-「悪い者」(19節)、「艱難や迫害」(21節)、「世の思い煩いや富の誘惑」(22節)-の存在である。ここでは、三つのたとえが語られる。「毒麦」のたとえでは、「良い種は御国の子ら」である(38節)。この「良い種」は、(A)で実を結んだその実のことだ。(A)がイエスの宣教活動を語るのに対して、(B)では、実を結んで新たな種となった弟子たちの宣教活動のことが想定されている。良い種である弟子たちは、イエスに派遣されて「世」の宣教に出かけて行く。「世」での宣教、すなわち「天の国」の実現過程には発展もあるが、同時に「敵」による妨げもある(24-26節)。しかも、その妨げは巧妙で根強く、取り除くことが難しい(27-29節)。なぜなら、宣教もそれに対する妨げもどちらも「世」に生きる人間の営みだからだ。ここに弟子として「世」に生きる難しさと苦しみがある。だが、この苦難は無駄に終わることは決してない。「種」は着実に成長して(31-32節)、「世」を内側から変えていく(33節)。そして刈り入れ(終末)のとき、その結果は歴然と現れる(30節)。この終末の裁きが(B)から(C)への内容的つなぎになっており、(C)では特に「天の国」の貴さが強調されている。