「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」(ヨハネ6:31)
エジプトを脱出したイスラエルの民は、神による訓練の場である荒れ野に導かれる。荒れ野は人間の目から見れば、飢えと渇きの不毛の地にすぎない。そこで、イスラエルの民は不平を述べて、捨ててきたはずのエジプトの方に心を向ける。彼らにとって、エジプトは「パンを腹いっぱい食べられた」飽食の地である(出16:3)。ところで、神がイスラエルの民に約束された地とは、「パンを不自由なく食べることができる」土地と言われている(申8:9)。「不自由」とは「欠乏することがない」という意味であり、「食べ飽きる(飽食)」とは異なる。イスラエルの民が望む状態と、神が与えようとする状態にはこのような相違がある。だから、神は不平を述べるイスラエルの民に「食べ飽きる(飽食)」を約束しながら(出16:8,12)、実際には、毎日自分に「必要な分」だけを食べるようにと命じる(出16:4,16)。
このように考えるならば、荒れ野における神の訓練とは、神の「飽食」と人間の「飽食」との違いを教えることであったと言えよう。