年間第21主日(B年)

福音=ヨハネ6:60-69


「主よ、…あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ6:69

 

 今年はB年に当たるので、年間主日にはマルコ福音書が朗読されるが、第17主日からきょうまで五週にわたってヨハネ福音書6章が順に朗読されてきた。ヨハネ福音書6章は、イエスが「ことばとしるし」によって聖体について語るが、そこで際立っているのは、弟子・群集・ユダヤ人の無理解・不信ということだ。第17主日(ヨハネ6:1-15)の「五千人に食べ物を与える」では、フィリポへの試みとアンデレの答えに暗示される無理解(5-9節)および群集の無理解(15節)。第18主日(ヨハネ6:24-35)の「イエスは命のパン」では、群集の無理解(26節)。第19主日(ヨハネ6:41-51)と第20主日(ヨハネ6:51-58)の「イエスは命のパン」では、ユダヤ人たちの不信。そしてきょうの福音では、ついに弟子たちの中からもイエスを離れていく者たちが現われたことに続いて、ようやく十二人を代表するペトロの信仰告白に至る。だがその直後に、最後に残ったこの十二人の中からすらイエスを裏切る者が現われることが予告される(70-71節)。

このような状況は、ヨハネ福音書のプロローグであらかじめ示されている-「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)。イエスはこの世の暗闇を「照らす光」(1:4,9)であり、イエスをキリストと信じる人々もまたこの光に属する者となる。ヨハネ福音書のエピローグは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と語る。それに応えるかのように、きょうの福音において、ペトロは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(69節)と告白する。人は一人ひとり「個」としてイエスと出会い、出会った人は信じるか信じないかの決断を迫られる。そしてその決断において「光と闇」に分けられるという。その意味で、不信の暗闇の中に差す一条の光とはイエス自身を指すと同時に、ヨハネ共同体の自己理解でもあり、世のただ中を生きるキリスト者の姿でもある。

  そこでは確かに世に対する神の裁きということが全面に出ているが、一方においてヨハネ福音書はこの世に向けられた神の愛を明確に語る-「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)。それはイエス自身の姿を通して示されたが、それは信じる者たちの世に対する在り方でもある。光から闇への招きという働きかけ、すなわち信じない者への宣教は、闇を照らす光としてのヨハネ共同体の使命なのである。このように考えるなら、「信じる」とは単に個人の救いへの選びではなく、他者の救いに積極的に関わっていく愛の業をも含む非常にダイナミックな行為と言えるだろう。