年間第24主日(A年)
福音=マタイ18:21-35
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)
マタイ福音書は、いろいろなたとえによって「天の国」について語る。18章は、天の国でいちばん偉い者についてのイエスと弟子たちの問答で始まる。そして、18章の結びであるきょうの福音において、再び天の国について語る。ここでの天の国は、18章の展開の中で少しずつ深められてきた「赦し」を中心にして語られている。
きょうの福音において、何度も出てくる三つの言葉がある。そしてそれがきょうの福音のテーマになっている。それは、「全部」、「赦す」、「憐れむ」である。
「七の七十倍」までも赦すとは、「完全に」赦すことを意味する。この「完全」という言葉をマタイは好んで使う。ここでは「完全に(テレイオス)」という言葉は使われていないが、内容的には「全部(パス)」という言葉がそれに当たる―「全部」(25、26、32節)、「残らず」(31節)、「すっかり」(34節)。このように、マタイは「全部」ということを強調する。
「赦す」(アフィーエーミ)というギリシア語は、罪を「赦す」の他に、借金を「帳消しにする」場合にも使われる。ここにこのたとえの面白さがある。罪とは借金のようなものであり、罪を「赦す」とは、借金を「帳消しにする」ようなものだと、具体的にわかりやすく説明する。
もう一つ大切なことは、「赦す」動機となる心の動きである。27節の「憐れに思う」(スプランクニゾマイ)、33節の「憐れむ」(エレエオー)、そして31節の「心を痛める」(リュペオー)もこれと関連する。
そもそもマタイが言う「完全」とは、「憐れみ深い」ことを意味する(5:43-48)。したがって、「完全に」赦すとは「憐れみ深く」赦すこと、つまり「心から」赦すことを意味する。わたしたちが兄弟を「心から」赦すことができるのは、天の父がまずわたしたちを「心底から揺さぶられて」(スプランクニゾマイ)赦してくださるからだ。このような兄弟的な赦しの中にすでに天の国が実現し始めている。天の国とは、わたしたちの生活からかけ離れたところにあるのではない。人と人の間にいつも水が澄んでいるなら、そこに天の国が映るはずなのだ。
カトリック高蔵寺教会