年間第25主日(B年)

 福音=マルコ9:30-37


「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マルコ9:37

 

 マルコ福音書において、イエスは弟子たちに「従う」こと、「仕える」ことを要求し続ける。先週の福音(8:27-35)において、第一回目の受難予告の後に、まず「従う」ことが弟子たちに教えられる(8:34)。きょうの福音では、再び受難が予告された後に、「仕える」ことが弟子たちだけに教えられる(9:35)。イエスが教える「従う」こと、「仕える」ことは、イエス自身の使命なのであり、その極みが十字架である-「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)。

 このように考えるならば、イエスが予告する自身の受難とは、弟子たちへの「従う」こと、「仕える」ことの教えと言える。つまり、それは単なる受難の予告ではなく、弟子たちへの大切な教えなのだ。このような繰り返しての教えにもかかわらず、彼らはイエスの道-それは弟子たちの道でもある-を理解できず、「神のことを思わず、人間のことを思い」(8:33)、自分たちのなかで「だれが一番偉いかと議論し合う」(9:34)有様である。

 こうした弟子たちに対して、イエスは言葉だけではなく、「子供を抱き上げる」という具体的な行為を示して、「従う」こと、「仕える」ことを教える。主を「受け入れる」とは、「小さい者」を「受け入れる」ことであり、それは、今、弟子たちの目の前で示されている「子供を抱き上げる」ようにすることなのである。「子供を抱き上げる」行為は、マルコ福音書の他の箇所では、「子供のように神の国を受け入れる」ことの象徴行為として示される(10:15-16)。

 キリスト者に求められる「従う」こと、「仕える」ことは、「小さい者」に共感し、共に歩もうとすることである。ただ手をつなぐだけでなく、相手の存在そのものを自分の腕にしっかり抱きとめることだ。子供を抱き上げるイエスの姿は、十字架上のイエスの姿にほかならない。