年間第26主日(A年)
福音=マタイ21:28-32
「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)
今日の福音は「二人の息子」のたとえ、来週は「ぶどう園と農夫」のたとえ、再来週は「婚宴」のたとえが朗読される。この三つのたとえをイエスはユダヤ教指導者たちに向かって語る。三つのたとえは共通して救いの「逆転」を語る。
「二人の息子」のたとえに登場する兄弟について、第一朗読のエゼキエルの預言(18:25-28)がわかりやすく説明してくれる。兄は自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行ったので、自分の命を救うことができる。これに対して、弟はその正しさから離れて不正を行ったので、その不正のゆえに死に至る。兄は最初、悪に向かうが、あとで「考え直して」、正しさに方向転換する。一方、弟は正しさから出発するが、悪に向かってしまう。神の御前で大切なことは、悪から離れて正しさに方向転換すること、すなわち回心することである。
だが、ここで忘れてならないことは、イエスが誰に回心を求めているかである。いったい、回心を求められている「罪人」とは誰なのか。当時のユダヤ人社会において、徴税人や娼婦は「罪人」と見なされていた。「罪人」とは律法違反者の意味であるが、単に律法を守らない者ではない。彼らの多くは、職業に伴う「不浄」のゆえに「罪人」と見なされた人々である。荒れ野で生活する人、川や海で働く人、各地を放浪する人、神殿の下働きをする人、小規模な商工業者、血や汚物にかかわる仕事をする人など、それはかなり広範囲に渡っていた。つまり、ここで言われる「罪人」とは「正しい人」と対比される特定の社会的階層なのである。
イエスの宣教とは、こうした「罪人」に反律法的な生活習慣や「不浄な」職業から離れて、律法共同体に復帰することを求めることではなかった。イエスが回心を求めているのは、「浄・不浄」の掟によって社会の中に「罪人」を作り出している「正しい人」、すなわちユダヤ教指導者に対してである。
「罪人」は裁きの対象ではない。「罪人」こそが言われなき差別による抑圧から真っ先に救われる人々であり、差別する「正しい人」は回心しなければ救いに与れない、とイエスは語る。ここに「貧しい人々は幸い」という救いの「逆転」が起こる。
カトリック高蔵寺教会