年間第27主日(B年)
福音=マルコ10:2-12(短い方)
「天地創造の初めから、神は男と女とにお造りになった」(マルコ10:6)
きょうの福音について、フェミニスト神学でよく知られるE.S.フィオレンツァの解説を紹介する。
父権制的結婚に関する前マルコの二つの論争対話はふつう「離婚」と「復活」という見出しで受け取られる。しかしながらこうした見出しは論争の中の本当の問題点を見落とさせることになる。マルコによる福音書10:2-9は、10:10-12の離婚に関する言葉とは別のものとして解釈するべきであるだけでなく、その光の中では解釈してはならないものである。イエスの前に出された質問は全く男性中心的であり(男性は妻を離婚することができるか)、父権制的な結婚を「当然のこと」として前提している。イエスとファリサイ派との最初のやりとりで次のことが明らかにされる。離婚が必要なのは男の「心のかたくなさ」のゆえ、つまり男性の父権制的な精神構造と社会現実のゆえである。だから、父権制が機能している限りは、離婚は必要から命じられている。父権制の構造内において人はそれを撤廃することを許されていない。しかしながらイエスが固執するのは、神は父権制を創造したのでも意図したのでもなく、男と女の人間存在として人を創造したということである。女性は「男の」家と家系を継続させるために男性の権力の中に与えられたのではない。そうではなくて男性が、自分自身の父権制的な家族との関連を断ち切り、そうして「二人は一つのサルクスになるべきである」。サルクス(「肉体」)は広い意味を持つ。すなわち体、人、人間存在、個人、被造物、人間の子孫、自然なこの世的なもの、人間生活全般、社会的人間関係、この世の歴史などである。霊に対立するものとして、肉体はこの世的な罪深い人間の姿勢や振舞いをも意味し得るが、それは決して単に性的意味内容を持つのではない。それゆえにその章句は、次のように訳されるのが最もふさわしい。「二人の人―男性と女性―は平等な者として創造されているのであるから、共通の人間生活と社会的人間関係に入るのである」。このテキストは男女両性具有的な最初の男性の神話に言及しているのではない。創造主なる神によって意図され可能とされた、人間の結婚における男性と女性の平等なパートナー関係に言及しているのである。それゆえに、神が平等なパートナー関係へと共に合わせられたもの(軛を共にされたもの)を、人間は切り離すべきではないのである。
(E.S.フィオレンツァ著、山口里子訳『彼女を記念して-フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』日本基督教団出版局 1990年、P.223-224)
カトリック高蔵寺教会