年間第29主日(B年)

福音=マルコ10:35-45


きょうの福音は、イエスと弟子たち一行がエルサレムに向かう途上での出来事として、3回目の受難予告に続いて語られる。イエスの度重なる受難予告によって弟子たちは、このエルサレムへの旅の行く手に少しずつ不安と恐れを感じ始めている(10:32)。しかしそれでも、彼らにはまだイエスの語ることがよくわからない。苦難が待ち構えていると先生が言うからには、それは本当にちがいない。だが苦難を受けねばならないのなら、必ずその報いが得られるはずだ。弟子たちはそう考え始めた。そこで、弟子たちは早速イエスに、苦難の報いを遠慮がちに願い出る(10:37)。この願いに対してイエスは、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10:38)と弟子たちに尋ねる。彼らが「できます」と答えると、イエスは弟子たちの受難を初めてはっきりと予告する。それと同時に、誰が栄光にあずかるかを決めるのは神であることを明らかにする。つまり、弟子たちの苦難は、決して栄光にあずかるための条件として予告されたのではない。むしろ、イエスは弟子たちに、受けようとしている苦難そのものに意味があることを教えようとする。なぜなら、それは神によって用意されている苦難だからであり、それを受けることは、イエスご自身が受けようとしている苦難に共にあずかることだからである。

  この苦難の道を、イエスは権力者の道と対比して、弟子たちが歩むべき道として示す。人々が求めているのは、権力を持って人々の上に立つことだが、イエスの弟子にあってはそうではならない。弟子たちが求むべきは、皆に仕えることだ。何のために仕えるかといえば、先生であるイエスご自身が、皆に「仕えるために」、皆の「身代金として自分の命を献げるために来た」(10:45)からに他ならない。きょうの第一朗読で読まれたイザヤの預言が語る「苦難の僕」の姿は、まさにこうしたイエスの苦難の意味を示す。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(イザ53:11)。苦難は栄光に達するための単なる関門ではなく、苦難そのものが実りとしての栄光をもたらすのである。

  旧東京カトリック神学院にはこのステンドグラスの他、中庭にザベリオ像もありました。校歌『主の召しあれば』は「ザベリオ逝きて四百年…」と歌います。

 神学院の窓からザベリオ像の後ろ姿を毎日見ながら6年間を過ごしました。