年間第32主日(B年) 

 

福音=マルコ12:38-44


「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12:44

 

 旧約の法は、「寡婦・孤児・寄留者」を社会的弱者として保護するように命じている。だが、こうした法は実際にはあまり機能せず、このような人々は社会的に疎外されて不利な立場に追いやられていた。きょうの福音の前半では、本来率先して彼らを保護しなければならない律法学者がやもめの家を食い物にしていると、イエスから批判されている。

 「富と貧困」の問題は、個人的倫理と社会的倫理の両面に関わる。しかもそれらが絡み合っている。旧約聖書の箴言は、イスラエルの知恵がこうした現実をよく理解していたことを示している。箴言は、二つの「貧しさ」を違う言葉を使って区別する一方で、この二つの「貧しさ」を一つの現実のなかで語る。一つの「貧しさ」は、勤勉と怠惰に対応する富と「欠乏」であり、これは因果応報的な「公平」という考え方に支えられている。もう一つの「貧しさ」とは、「神に従う」ことと「神に逆らう」ことの対立のなかで語られる「搾取」「抑圧状態」です。そしてその根底には神の「正義と裁き」という考え方がある。こうした「欠乏状態」としての「貧しさ」と「抑圧状態」としての「貧しさ」は、箴言が示すように、現実のなかでは区別しがたく一つになっている。たとえば、それは「ホームレス」と呼ばれる人々の生活において一つの「貧しさ」、貧困生活として現われる。

 聖書の思想は、「欠乏状態」の「貧しさ」のなかに潜む「抑圧状態」の「貧しさ」を中心的テーマとして掲げる。多くの預言者たち、そしてイエス自身がそうである。「正義と裁き」を実現するためには、多くの困難と苦難を避けることができない。イエスはまさにそのために「奪われた人」である。食い物にされながらも、乏しい「生活費」(いのち)をすべて神に献げたやもめの姿は、自らの「いのち」を与え尽くしたイエスの姿と重なり合っている。