年間第5主日A年
福音=マタイ5:13-16
「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)
「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」-イエスに従おうとする人は、すでに「塩」であり、「光」であると言う。「塩である」こと、「光である」ことは、すでに恵みとして与えられている。その恵みはまたキリスト者に与えられた使命でもある。
塩が塩として、光が光としてその役割を果たすとはどういうことか。それは、今日の第一朗読であるイザヤの預言が教えてくれる。「同胞に助けを惜しまないこと」(イザ58:7)-直訳すれば、「あなたのバシャールから、あなた自身を隠さないこと」である。そうすれば、「あなたの光」が射し出でると言う。バシャールの元来の意味は「肉」であり、その原意から、ここで使われているような「血縁関係」を意味し、さらに「もろい人間存在」を意味する。つまり、「あなたの光」が射しこむ闇とは、神の意志に従えない人間の弱さを表していると言える。
「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たす」(イザ58:10)こと-直訳すれば、「飢えている人にあなたのネフェシュを見せ、身をかがめている人のネフェシュを満たす」ことである。ネフェシュの元来の意味は「のど」または「首」であり、それは「苦しんでいる状態」を表す。「飢えている人にあなたのネフェシュを見せる」とは、「苦しんでいる人に共感する」ことであり、それは苦しんでいる人と同じように身をかがめることである。そうすれば、「あなたの光」が闇を照らすと言う。闇とは、苦しみに満ちた人間の世界のことだ。
さらに「あなたの光」(イザ58:8,10)とは、イザヤによれば「あなたの正義(ツェデク)」(イザ58:8)なのだ。人間の「正義」は神の「正義」の現れである。だから、「あなたの光」を輝かすならば、それは「主の栄光」を人々に示すことになる(マタ5:16)。
キリスト者の光を輝かすとは、身をかがめている人と共に身をかがめることによってである。このような人こそ幸いであるとイエスは言う(山上の垂訓)。イエスに従おうとする人とは、苦しむ人の苦しみを共に担おうとする人なのである。
カトリック高蔵寺教会