年間第5主日(B年)

マルコ1:29-39


「近くのほかの町や村に行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(マルコ1:38

 

 イエスはシモンとその仲間に言われた。

   「宣教するために私は出て来たのである」(1:38)。

 「宣教する」-イエスの宣教とは、神の国の到来を告げ知らせることだった。それは単に言葉によるだけではなく、「悪霊を追い出す」という表現で象徴されているような、神の国の到来を現実のものとして体験できるしるしを伴うものだった。

 「出て来た」-イエスの宣教活動は、一定の場所にとどまって行われるのではなく、町や村を巡り歩いて行われた。今日の福音では、巡り歩いて、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりして宣教するイエスの姿と、人里離れた所で一人祈るイエスの姿が印象的である。

 イエスは、会堂を「出て」(エクセルコマイ)、シモンとアンデレの家に「行った」(エルコマイ)。イエスは熱を出して寝ているシモンのしゅうとめの「そばに行き」(プロセルコマイ)、病気をいやした。夕方には、その家の戸口で、たくさんの病人をいやし、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出した。翌朝早くまだ暗いうちに、イエスはその家を「出て」(エクセルコマイ)、人里離れた所へ「行き」(アペルコマイ)、祈った。イエスは弟子たちに、宣教するために「出て来た」(エクセルコマイ)ことを語り、ガリラヤ中の会堂に「行き」(エルコマイ)、宣教し、悪霊を追い出した。

 今日の福音で語られる宣教活動の場は、「家」、「戸口」、「人里離れた所」、「会堂」である。「家」が「個人の生活の場」であるのに対して、「戸口」は「公の生活の場」を意味する。「人里離れた所」が「個人の祈りの場」であるのに対して、「会堂」は「公の祈りの場」である。つまり、「家」、「戸口」、「人里離れた所」、「会堂」とは、ユダヤ人の全生活空間を表す。そうであるならば、今日の福音は、イエスの宣教活動がユダヤ人の全生活に及んでいたことを語る。そしてそれは、「病気」とか「悪霊」という表現によって象徴的に示されている様々な苦しみから人々を解放することによって、神の国がすでに現実のものとなり始めていることを告げ知らせることだった。

 イエスは一つの場所に決してとどまることなく、宣教するためにあらゆる場所へ出て行った。そしてイエスの祈りは、その宣教活動の中に位置づけられている。ともすると、教会は内向きになりがちだが、「出て行く」イエスの姿にならって、私たちも各自の生活の場に派遣されて行こう。