年間第8主日(C年)

福音=ルカ6:39-45


「弟子は師にまさるものではない」(ルカ6:40

 

 今日の福音は先週に引き続いて「平野の説教」の一部で、弟子たちに向けて語られている。

まず「目の見えない人の道案内」のたとえが語られる。「道案内をする」という表現は、新約聖書において、すべてが「信仰上の導き」という意味で使われる。また「目の見えない人」は「闇の中に置かれている人」、「闇の中にあって道を求めている人」、「闇の中に置かれているがゆえに真っ先に神の救いにあずかる人」を表す。このたとえが弟子たちに語られているなら、「目の見えない人」とは彼らのことを指すことになる。弟子とは、自力で信仰の道を一人歩きできる者ではなく、神の助けを必要とするのであり、それによって初めて誤ることなく歩むことのできる者だ、という。なぜなら、「弟子は師にまさるものではない」からだ。

 それに続いてイエスは言われる-「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。先ほどの言葉とつなげて考えるなら、弟子は自分の先生より上の者ではないが、努力次第では先生と並ぶ者となることができる、という。これをイエスと弟子の関係に当てはめるなら、弟子も努力すればイエスのような者になれるということになる。しかし、さらにさかのぼって、「目の見えない人の道案内」のたとえを考えるなら、少しおかしいのではないかと思われる。「目の見えない人の道案内」のたとえでは、弟子とは主の助けなしには一人歩きできない者と言われているからだ。

 そこでもう一度よく読んでみると、他の読み方ができることに気づく。ここで「十分に修行を積む」と訳されているギリシア語は「不完全な状態から完全な状態へ整えていく」という意味を表す。ここでは「条件」の意味に解して「十分に修行を積めば」と訳されているが、別の可能性がないわけではない。これを「譲歩」の意味に解するなら、「たとえ十分に修行を積んだとしても」と訳すことができる。そうなると、ここは「弟子は師にまさるものではなく、たとえ十分に修行を積んだとしても、皆、師のようになるのが精一杯である」ということになり、あくまでも師の弟子に対する優位が強調されることになる。

 最初に、師であるイエスの導きが強調されているなら、それに続く二つの教えにおいても、決して自力救済が求められていないことがわかる。人間の努力は確かに必要だが、神の助けが不可欠だ。それを忘れるなら、たちまち「目の見えない人」となり、道を誤ることになる。