ABC年共通
復活節第2主日
福音=ヨハネ20:19-31
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)
きょうの福音は復活の主日に続いて、ヨハネ福音書20章の復活顕現物語である。そこでは「しるし」が中心となっており、「見る」ことが問題とされる。ヨハネ20章は四つの話で構成される。第一は「ペトロとヨハネに対する顕現」、第二は「マグダラのマリアに対する顕現」、第三は「弟子たちに対する顕現」、第四は「トマスに対する顕現」である。この四つの話全体を締めくくるイエスの言葉が最後に出てくる-「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」-。この言葉は全体の締めくくりであるだけではなく、20章で語られる福音を解く鍵にもなる。
「わたしを見たから信じたのか」という表現は、「見ないのに信じる人は、幸いである」と対応しているわけではないようだ。もし両者が対応しているなら、「見て信じた」ことは「見ないで信じる」より劣位に置かれていることになる。これは20章全体の内容と矛盾する。なぜなら、20章の復活顕現の証言は「見た」(ホラオー)という語で表現されているからである。「見て(ホラオー)信じた」ことを否定的に評価するなら、20章の復活顕現物語は福音としての意味を失う。「わたしを見たから信じたのか」は、トマスの信仰を否定的に評価しているのではなく、むしろ彼の信仰を確認しているのであり、それはまた、マグダラのマリアや弟子たちの信仰を確認するものなのだ。これに対して「見ないで信じる」は、ヨハネや弟子たち、そしてトマスが「見て、信じた」ことに向けられている。そもそもイエスの復活とは「ラザロのよみがえり」のような死者の蘇生とは根本的に異なる。「ラザロのよみがえり」は視覚的に「見る」ことができるが、イエスの復活はそうではない。しかし、イエスは弟子たちにまず「見る」体験をさせた。そしてそこからもう一歩進んだ「見る」体験へと導いた。だからこそヨハネは、弟子たちが「見て、信じた」の「見る」と「主を見た」の「見る」をわざわざ異なる動詞で表現したのだろう。復活体験を言葉で表現することは難しかったにちがいない。「わたしたちは主を見た」という証言は、本来言葉では表現できない体験なのだ。
週の初めの日に集まっていた弟子たちの真ん中に、復活されたイエスは入ってこられ、弟子たちは一人ひとり復活体験をした。同じように、週の初めに教会に集うキリスト信者は弟子たちのようにイエスを「見る」(エイドン)ことはできないが、集いの真ん中におられる主を「見る」(ホラオー)ことができる。一人ひとりが主を「見た」(ホラオー)体験によって信仰に導かれる。この体験の証しこそが信仰宣言なのだ。
カトリック高蔵寺教会