復活節第4主日A年
福音=ヨハネ10:1-10
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10:3)
今日の福音では、イエスはご自分のことを「羊飼い」と「門」にたとえて語るが、ヨハネが使う「たとえ」(パロイミア)は、共観福音書に出てくる「たとえ」(パラボレー)とは異なり、「真理が隠されている謎めいた話」を意味する。今日の福音は確かに、「羊飼い」と「門」の話が複雑に入り組んでいる。「門」から入る「羊飼い」がイエスのことかと思って読んでいると、イエスは「わたしは門である」と言われる。それでイエスは「門」の方だったのかと思って先を読むと、今度は「わたしは羊飼いである」と言われる。この「謎」を解く一つの方法は、もともと「門」と「羊飼い」の二つの話が一つに組み合わされたと考えることだ。これも可能性としては十分考えられるが、話の筋がいま少しはっきりしない。どうも「門」と「羊飼い」は単純に分けられてはいないようである。2節の「羊飼い」は直訳すると「羊の羊飼い」であり、わざわざ「羊の」という語が付け加えられている。新約聖書において、「羊飼い」にわざわざ「羊の」を付け加えているのはこの箇所だけである。1節では「羊の囲い」、7節では「羊の門」とあり、9節の「門」と比べて、わざわざ「羊の」が付け加えられている。どうも8節までは話の中心は「羊」にあるようだ。3節から4節にかけて「羊飼い」と「羊」の関係を示す話では、まず「羊が聞き分ける」ことが先に述べられ、「羊飼い」よりも「羊」の方が強調されていることがわかる。つまり、8節までの話のかなめは、「羊は聞き分ける」ことができるという点にある。何と何を「聞き分ける」のかと言えば、それは「羊飼い」と「盗人・盗賊」とを「聞き分ける」と言う。「聞き分ける」ことの強調は、裏を返せば、「盗人・強盗」の存在を強調しているということである。「盗人」は三度言及され、それは「狼」と表現されている。
このことは、ヨハネ福音書が書かれた当時の歴史状況と関係があると思われる。当時、ヨハネ共同体は、ファリサイ派に指導されるユダヤ教と対立関係にあり、彼らからの迫害にさらされていた。これに対して、ヨハネ共同体は結束を固める必要があった。こうした不安定な状況のなかで、「羊は聞き分ける」ことができることを強調したのは、信者一人ひとりを励まし、力づけるためだったのではないか。だが、何よりの励ましと力づけは、自分たちのことをよく知り、自分の命を捨ててまで自分たちを守ってくれる「羊飼い」の存在である。イエスの死後、少なくとも半世紀以上は経過していたであろうヨハネ共同体にとって、一人ひとりの「名を呼んで」励ますイエスの声は何よりの力となったにちがいない。
カトリック高蔵寺教会