1月1日 神の母聖マリア(祭日)ABC年共通
福音=ルカ2:16-21
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)
マリアがエリサベトを訪問したとき、エリサベトはマリアを祝福して、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言った(1:45)。また、ある婦人がイエスに向かって、「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と母マリアを讃えたとき、イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と答えた(11:27-28)。救い主の母となったマリアの母性の素晴らしさは、ひとえに神のことばへの彼女の信頼に基づいている。
きょうの福音においても、マリアの姿の中に、神のことばを信じ、聞き従う信仰者の生き方を見出すことができる。この福音の背景には、神が語られることばは必ず出来事となって成就するという神のことばへの信頼がある。ヘブライ語で「言葉」を意味するダバールには「出来事」の意味もあり、ギリシア語ではレーマがそれに当たる。そして「語る」方に重心があるときには「(語られた)言葉」を意味し、「起こる」方に重心があるときには「(すでに起きた)出来事」を意味する。
きょうの福音において、羊飼いたちは、主が知らせた「すでに起こった出来事(レーマ)」を見に出かける。そして、彼らはそれを見て、この幼子について「告げられた言葉(レーマ)」を人々に知らせる。これを聞いた人々は、羊飼いたちによって「告げられたこと」を不思議に思うが、マリアは「これらの出来事(レーマ)」をすべて心に留め、思い巡らした。羊飼いたちによって「告げられたレーマ(出来事・言葉)」は、「言葉」と「出来事」の二つに分かれてしまい、それによって反応も二つに分かれる。神のことばを単に言葉としてしか聞き取れないなら、ただ不思議に思うだけで、幼子誕生という出来事の意味を知ることはできない。しかし、マリアのように、神のことばを「出来事となって成就する言葉(レーマ)」として受け取ることができるなら、たとえその意味をすぐに理解できなくても、それに近づくことができる。神のことばをどのように聞き、どのように受け止めるかということが、大きな分かれ目となる。
カトリック高蔵寺教会