2019年4月14日 福音によせて

受難の主日(C年)

 

福音=ルカ23:1-49


「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)

 

きょうの第一朗読では、先週の主日に続いて第二イザヤ(イザヤ書40-55章)が朗読される。そして聖週間の間、すなわち受難の月・火・水・金曜日と読み継がれていく。なぜなら、福音書に描かれているイエスの受難の姿は、この第二イザヤが語る「苦難の僕」を背景としているからである。このことは、福音書記者たちがイエスの受難という出来事を、この預言のことばを通して理解したというだけではなく、たぶんイエス御自身も自らの使命をこの「苦難の僕」の中に見いだされたからだ。

 この「苦難の僕」について理解するために、イスラエルの救済史全体の中でこの出来事を見る必要がある。紀元前6世紀の初め、南ユダ王国は新バビロニア帝国によって征服され、イスラエルの民は、いわゆる「バビロン捕囚」という出来事に遭遇した。半世紀にわたる捕囚生活は、ペルシア王キュロスのバビロニア征服によって終止符が打たれ、イスラエルの民にエルサレム帰還への道が開かれた。

 こうした政治的状況にあって、神ヤーウェは異邦の王キュロスさえも救いの道具として用いられ、イスラエルの民を捕囚から解放されることを告知したのが第二イザヤと呼ばれる無名の預言者だった。

 そもそもイスラエルの民は出エジプトという決定的な救いの出来事の体験によって「神の民」として結集された。その頂点にあるのがシナイ契約である。ところが、彼らが定着したカナンの沃地宗教(偶像礼拝)の影響によって、イスラエルの民は神への背きを繰り返すようになり、神の民は崩壊の道をたどり始める。このような崩壊過程のどん底にあるのがバビロン捕囚という出来事だった。その意味で、第二イザヤは崩壊した神の民が再び結集されていく出発点に立っている預言者と言える。彼が捕囚からの解放を「新しい出エジプト」として語っているのは決して偶然ではない。しかし、出エジプトの出来事自体が救いの保証なのではない。保証は神への背きによって既に無効になっている。神との関係回復、すなわちイスラエルが神に立ち帰ることこそが求められている。ここには、いわば救いの連続性と不連続性が見られる。この接点に立って、イスラエルを神に立ち帰らせる使命を担ったのが「苦難の僕」だった。この「苦難の僕」の姿こそ、真の「神の民」の使命を暗示するものだった。しかし、現実のイスラエルはこの使命を担えなかった。この使命の実現はイエス・キリストの到来まで待たねばならなかったのだ。