復活の教会            主任司祭 椎尾匡文

 高蔵寺教会のファサードには、ステンレス鋼材で製作された「太陽」が取り付けられています。このオブジェは「復活」のシンボルとされています。デザインしたのは、神言修道会のコンリス神父様(19282006年)です。現在の聖堂が献堂されたのが1983年なので、その前年に、当時の主任司祭であった岩崎一二三神父様が製作を依頼したと思われます。コンリス神父様の年譜によると、年に来日して、南山学園で教鞭をとりながら、学園内にオブジェなどの制作を始めた時期に当たります。1983年に神父様は多治見修道院の地下洗濯場を工房にして絵画制作を始められ、1999年まで続きました。その間に高蔵寺教会との交流もありましたが、現在では高蔵寺教会の顔である「太陽」やコンリス神父様のことを知る信徒も少なくなりました。そこで、コンリス神父様の略歴を紹介しながら、「太陽」に込められた神父様の思いを探ってみることにします。

 

 コンリス神父(John Francis Conliss)は、1928年1月10日、アイルランド中部にあるという小さな町で生まれた。高校卒業後、数年間イギリスの商船で働いたが、その商船は朝鮮戦争の間、軍需物資を運んだりもした。その時の体験が、平和主義と、ナショナリズムを越えた普遍的な人間愛への傾きをはっきりと意識づけたようである。彼の意見によると、国別のパスポートは、人が生れた場所や国によって個人を特定したり、たまたま地理的に違うことによって我々を特定したりというような分裂をもたらす公文書である。個人の「身分証明書」というシンプルな共通の形式が、国籍、民族、出生地にかかわりなく世界中すべての人に普遍的なパスポートとして提供される時代を彼は期待した。彼はたまたまという雑誌を読んで、1955年、アイルランドの神言修道会に入会した。その雑誌は、カトリック宣教事業への関心を引き起こす目的で、神言修道会によって製作された写真入りの家庭向け雑誌であった。2年間の修練の後、シカゴに移り、必要な神学教育を受け、1963年、カトリック司祭に叙階された。続く3年間、ワシントンにあるアメリカ・カトリック大学で美術を学び、修士号を取得した。その後、彼はドイツでステンドグラスの技法を学び、ローマの神言修道会本部で働くことを命じられた。そこで彼は、世界中にある神言修道会の建造物の設計を任された建築事務所の助手を務めた。この時期の彼の仕事の多くは、聖堂の祭壇やステンドグラスの窓などの小規模なものであった。その間に彼は線描や絵画の小作品において、「探求」という彼独自の芸術スタイルを発展させた。

 ローマにいる間ずっとローマ周辺やヨーロッパの他の場所で、彼は展覧会を数多く行なったが、それらは友人たちによって説得されて行われたものである。展覧会は小規模であまり知られていない画廊で行われた。このことは、自分自身に注目が集まることに対して、彼が不承不承であったことにもよるが、いかなる現実的な評価にも関心が薄く、平凡な傾向や流行に傾きがちな芸術の「体制」に対して非常に批判的であったからでもある。

 1980年、彼はシカゴでクラスメイトであったシューベルト神父の招きによって日本に移った。シューベルト神父は当時、名古屋にある南山短期大学の学長であった。そしてコンリス神父は短大の非常勤講師となった。彼は美術の講義をしたり、キリスト教や英語を教えた。この時期、彼はいろいろな南山学園の教授たちのレジデンスであったピオ館に住んだ。しかしながら、体調不良が彼の教師生活を短いものにした。彼は名古屋近郊にある多治見修道院に移った。そこで彼は自分のアトリエを新たに始め、体調が悪化しアイルランドに帰ることになる2001年まで芸術上の「探求」を続けた。しばらく彼は、西スコットランドの教会で仕事をした。それは、度重なる発作で2005年にアイルランドで引退するまで続いた。彼は南山で教えている間やその後も、彼は校舎の壁をモザイクで装飾するために、芸術家としての才能を発揮した。不幸にも彼の作品のいくつかは、短大の建物が取り壊されたときに失われた。しかしながら二つの大作は南山大学の学生たちの日々の風景の一部となった。当時のヒルシュマイヤー学長は、新たに建てられた図書館前の広場に大学のシンボルの一つになる「何か目立つもの」を創ることを彼に依頼した。それは、空中に浮かぶようなステンレス製の巨大な地球儀である。境界のある大陸や国々ではなく、世界はすべてが「平和」という言葉を指し示すしるしや文字のパッチワークである。

 

 南山キャンパスへの他の大きな貢献は、ヒルシュマイヤー学長の後任、リーマー神父によって委託された。それはパケ広場の「池」と泉水である。その泉水が大きな川と、エデンの園の中央にある生命の木を描く、創世記のエデンの園の記述であることはあまり気づかれない。コンリス神父は南山のメインストリートの両側にあるキャンパスに重要な遺産を残した。一方には、平和を求めて努力することばの世界の地球儀がある。他方には、その中央に天国のシンボルを持つ緑の空間の広がりがある。それは、聖書が語る自然と人間の間の理想的な調和のシンボルである。

 

 「太陽」のオブジェの意味を考えるに際して、コンリス神父様が南山キャンパスに遺した二つの作品がヒントを与えてくれます。神の被造物である地球(世界)には、人間の自由の乱用によって壊れ(分裂)が生じました。創世記1-11<章は、その次第を語ります。この「壊れ」の回復を求める歩みは「救いの歴史」と称され、「楽園」は人間が実現すべき目標・理念として掲げられています。この目標・理念を、コンリス神父様は「平和を求めて努力することばの地球儀」と「エデンの園」で表現されました。彼が高蔵寺教会の聖堂のためにデザインした「太陽」は、これを目にする者に、教会が「平和を求めて努力する人たち」が集う場所であることを示します。これが、コンリス神父様が高蔵寺教会に託された思いだったのではないでしょうか。

 

略歴はWalter DUNPHY、「Father John Conliss ,SVD」、南山大学図書館カトリック文庫通信 カトリコスによる。他に「The Art of Belief」(英文)、The Word(March 2006), pp.4-7も参照した。資料の一部およびプライベート写真は長谷川光子さんの提供による。ただし、本稿では、彼の絵画に対する評論の箇所は省略した。