キリストの聖体 C年
福音=ルカ9:11b-17
「すべての人が食べて満腹した」(ルカ9:17)
きょうの福音は、共観福音書が共通して伝える「五千人の共食」の出来事である。この話は、旧約聖書が伝える「荒れ野」の出来事に背景がある。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は荒れ野で飢え渇き、モーセに不平を言う。それは神への不信の現れである。そのような民の抵抗に対して、神は水とマナを与えることをモーセに告げて、彼らの不信を取り除こうとされた。荒れ野はイスラエルの民が神への信頼のもとに生きる訓練の場であった。彼らが導かれる「約束の地」とは、神への信頼によって初めて現実のものとなるからだ。
きょうの福音の社会的背景は、ローマ本国、地方の出先機関、ユダヤ教の神殿による三重の支配(ルカ3:1-2)によって収奪され、生活基盤を喪失したガリラヤの民衆である。「五千人」とは、日ごとのパンに事欠き、生きる希望を失った群衆である。そのような人々がイエスの周りに集まってくる。彼らにイエスは「出エジプト」の出来事を語ったにちがいない。そして「分かち合う」仕方でパンを与えられたのだろう。それはマジックではない。「共食」がもたらす「共生」である(使2:44-46)。
第2朗読(1コリ11:23-26)は最も古い聖体制定の記録である。これは言うまでもなく「最後の晩餐」のイエスの言葉に起源があるが、資料的にはエルサレム教会の聖餐式の式文に由来すると考えられる。この式文は40年代にアンティオキア教会に伝えられ、そこから派遣されたパウロが50年頃にコリント教会にもたらし、57年頃、第一コリント書が書かれたらしい。パウロにとって「聖餐」とは、1)主の死を告げ知らせること、2)キリストの体と血に共にあずかる(キリストの体になる)ことであり、3)そこでは信仰と愛が要求され、4)共同体生活の基盤となるものである。
初代教会には、主イエスの「生」全体が息づいていた。「聖餐式」は単なる記念儀式ではなく、イエスの「生」を自らのものとする確認の場である。「わたしの記念としてこのように行いなさい」とは、「パンを裂く」ことに尽きない。「引き渡される」ときがイエスの生の頂点であったのなら、「このように行う」とは、「聖餐式」を執り行うことを通して、イエスの生を自分の生き方とすることなのだ。
カトリック高蔵寺教会