三位一体の主日A年
福音=ヨハネ3:16-18
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)
今日の第一朗読では、神はどのような方であるかが神ご自身によって示される(出34:6)。神は「憐れみ深く恵みに富む」方であり、「慈しみとまことに満ちている」方であると言われる。どちらも旧約聖書の中で、ペアーになってよく使われる。「憐れみ深い」という言葉は、元来「胎(子宮)」という言葉と関係があり、「腹の底から共感する」ことを意味する。「神の憐れみ」とは、そのように深く生々しいものなのだ。「恵みに富む」という言葉は、「神から選ばれた」状態を表す。ここで言う「恵み」とは「選びの恵み」なのだ。ちなみに、「ヨハネ(ヨハナン)」という名は、「主(ヤーウェ)が選びの恵みを与える」を意味する。したがって、この「恵み」は主との契約に関係がある。この契約に対する忠実さと誠実さを表すのが、「慈しみとまことに満ちる」ということなのである。「恵み」が契約に伴うものであるなら、「憐れみ」と「恵み」には「正しさ」が伴う(詩112:4)。だから神は裁きについて語る(第一朗読で省略されている出34:7)。神の裁きは「慈しみとまこと」の関係が崩れたときに起こる。それにもかかわらず、神の「慈しみ」に対する永遠の保証によって(出34:7)、神の「怒りは遠ざけられる」(出34:6の「忍耐強い」の直訳)。神は「罪と背きと過ちを赦す」と言われる。ここでの「赦す」は、頭を「上げる」ことを表す。自分の罪を深く悔いて神の前にひれ伏すとき、神はその者の頭を上げて罪を赦す。だからこそ、モーセはイスラエルの民を代表して、神の前にひれ伏した。
今日の福音の直前で、イエスは「人の子も上げられねばならない」と言う(3:14)。「上げられる」とは「十字架に上げられる」と「天に上げられる」の両方を意味する。それはイエスの全生涯(生と死と復活)を象徴する。イエスは、人々の罪を担って十字架にかけられた。それは御父が与えた使命に対する御子の忠実さを表す。そして御父はその忠実さを受け入れて、御子を天に上げられる。ここに「慈しみとまこと」が完全に実現されている。第二イザヤが預言する「苦しむ主のしもべの歌」において、罪を「担う」と「高く上げられる」は同じ動詞で表現される。それはまた、モーセに啓示された、罪を「赦す」神の姿なのだ。モーセに啓示された神は、人々の予想を越えた姿で、すなわち十字架にかけられる神として人々の前に現われた。それは人の目には信じがたいものだった。人は聖霊の助けによってのみそれを信じることができる。御父と御子の間の「慈しみとまこと」の完成によって結ばれた新しい契約に私たちが与ることができるのは、ただ聖霊の働きによる。なぜなら、聖霊とは、御父と御子の間の「慈しみとまこと」から生まれてくるものだからだ。三位一体とは、このような「慈しみとまこと」が完成された状態を表すものなのだ。
カトリック高蔵寺教会