主の昇天A年
福音=マタイ28:16-20
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)
マタイによると、主の昇天という出来事はガリラヤで起こった。弟子たちにとって、ガリラヤは生前のイエスが生活した場所であり、彼らがイエスと共に過ごした場所だった。イエスはガリラヤで宣教活動を始め(マタ4:17)、ガリラヤ中を回った(マタ4:23)。そして、このようなイエスの生活の場が、復活したイエスとの出会いの場となった。生活の場から離れたところに「復活」があるのではない。主との出会いは、まさに私たちの生活の場で起こる。イエスは「いつもあなたがたと共にいる」と言って弟子たちを励ます。イエスの「共に」は、祈りの場において実現するだけではなく、生活の場において現実的な力として現れる。
今日の福音の中で、イエスは「すべて」ということを繰り返し強調する-「一切の権能」、「すべての民」、「あなたがたに命じておいたことをすべて」、「いつも」(直訳:「すべての日々」)。それは今日の第一朗読、答唱詩編、第二朗読、アレルヤ唱にも見られる。イエスの「共に」は、ガリラヤから全世界の人々に広がっていく。そして、イエスの「共に」は世の終わりまで続く。その意味でマタイは、主の再臨を待ち望むというよりは、今ここでの復活者イエスとの「共に」を考えている。
このように考えるならば、今日の福音は、私たちが福音宣教を行う際に大切な指針となる。弟子たちが、復活者イエスと出会った場が生活の場であったのなら、私たちが主と出会う場も私たちの生活の場であるはずだ。「行って」とは、それぞれの生活の場、すなわち家庭や職場や学校に「行く」ことだ。「教える」とは、単にキリスト教についての知識を伝えるだけではなく、生活の場でイエスの教えを実践することだ。信仰生活と日常生活という二つの場があるのではない。生活の場こそが信仰の場なのだ。それぞれの生活の場で、「今ここに主がおられたならば、どのように生きるであろうか」という視点が大切である。今日も「行って、福音を告げ知らせよう!」(ミサの結びの派遣の祝福)。
カトリック高蔵寺教会