「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)
旧約聖書では「エリヤの昇天」物語が有名である。「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである」(王下2:1)「エリヤは嵐の中を天に上って行った」(王下2:11)これと並行して、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」(王下2:3)という表現が見られる。「神が取る」という表現は、下記の箇所に出てくる。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創5:24)「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」(詩49:16)「あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう」(詩73:24)
「天に上げられる」すなわち「神が天に上げる」とか、「神が取る」という言い方は、「特別な死に方 」を表わす。モーセの場合もそうだが、徹底的に神に自分を捧げ尽くして、自分は無に帰してしまうということではないか。「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」(申34:5-6)。神から特別な使命を授かり、それを果たした人の死に方はまた特別である。彼は地上に墓を残さない。福音書が伝えるイエスの「空の墓」の元来の意味はここにある。「イエスの昇天」も旧約の先人たちに倣うものである。