主の洗礼(祝日)A年

福音=マタイ3:13-17


「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17

 

 降誕節の福音の主題は「イエスにおける神の栄光の現れ」であり、降誕物語に続いて語られるイエスの公生活の主題を先取りする。年間第2主日では、ABC年ともにヨハネ福音書からイエスの公生活の始まりの箇所が朗読される。この公生活の開始に先立つ「主の洗礼」の出来事は、公生活におけるイエスの言動を権威づける、イエスのメシア性を宣言する。これを明示するのは「天からの声」であるが、共観福音書を比較すると、そこにはニュアンスの相違が見られる。マルコとルカにおける「声」は「あなたは…」と直接、イエスに向けられている。これに対して、マタイでは「これは…」と第三者に向けられる。しかし、マルコとルカの間にも相違がある。ルカはイエスが民衆と共に洗礼を受けたと語るが、マルコはイエス以外の受洗者を語らない。この点はマタイと共通する。このような叙述から次のような各福音書の強調点が浮かび上がる。マルコはその簡潔な叙述を通して、受洗の出来事は、なによりもイエス自身にメシアとしての使命を自覚させる体験であるとする。ルカはマルコの簡潔な叙述を踏襲するが、受洗の場面に民衆を立ち会わせることによって、天からの声は民衆への宣言ともなっている。マタイは、イエスと洗礼者ヨハネの優劣関係を明示する問答を付け加えて叙述を増幅させ、イエスのメシア性を強調し、天からの声はそれを裏付けるものとしている。

 このように、共観福音書が伝える「イエスの洗礼」の叙述は、それぞれが強調点を異にしながらも、私たち自身が受けた「洗礼」の意味を教える。洗礼の秘跡は、まず神の恵みであること、その恵みは根本秘跡である教会共同体の中で与えられること、そして受洗者には福音を伝える使命が与えられる、ということである。