四旬節第1主日(C年) 

 

福音=ルカ4:1-13


「イエスは、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:2

 

 四旬節第1主日はABC年とも「イエスの荒れ野での試み」の出来事が朗読される。

 ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされて帰ってきたイエスは霊によって荒れ野に導かれる。このとき、イエスは悪魔から試みを受ける。福音記者たちは、「荒れ野の四十日」の出来事を、旧約聖書が語る「荒れ野の四十年」を背景として描いている。エジプトを脱出したイスラエルの人々が体験した荒れ野での四十年は、人間の側からすれば過酷な試みであったにしても、それは常に神の導きのうちになされた。それと同じように、イエスに対する悪魔の試みも、聖霊の導きのうちにあったと言えよう。だが、悪魔の最大の試みは、この四十日が終わったときに始まる。

 荒れ野での四十日が終わったとき、イエスは飢えを感じた。そのときイエスは悪魔から三つの試みを受ける。この試みの間、なぜか霊はイエスを離れていたかのようだ。なぜなら、きょうの福音に続いて「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)とあり、きょうの福音の冒頭「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と対応して、きょうの福音が語る試みの出来事全体を囲い込んでいるからである。確かに試み全体は聖霊の導きのもとに行われたが、試みのときは霊の「空白期間」であったのではないか。つまり、試みは霊が離れたときに起こり、その意味でイエスの飢えとは霊に対する飢えでもあったのだ。しかしイエスはこの試みを退けてまっすぐ神に向かう。霊に対する飢えがイエスを神に向かわせた。

 こうして悪魔はすべての試みを終えると、時が来るまでイエスを離れる。ルカは悪魔の試みも神の救いの計画の一コマにすぎないことをはっきりと示すことによって、この試み自体が聖霊の導きのうちにあったことをここで再び明らかにする。時が来るとイエスを離れた悪魔はユダに入った(ヨハ13:27)。このときから再び霊の空白期間が始まったようだ。ヨハネによると、すべてが終わったときにイエスは十字架上で「渇く」と言って息を引き取られた(19:28-30)。この霊の空白期間に「最後の試み」があったのかもしれない。

 「飢え」は単なる空腹ではなく、私たちを神に向かわせる。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」(ルカ6:21)。