四旬節第2主日(B年)

福音=マルコ9:2-10


「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」(マルコ9:10

 

 四旬節第2主日には毎年、「主の変容」の出来事が朗読される。主の変容の祝日には、第一朗読として『ダニエル書』(7:9-10,13-14)、第二朗読として『ペトロの第二の手紙』(1:16-19)が読まれ、どちらも「主の再臨」がテーマになっている。したがって、主の変容の祝日には、「変容」の出来事は、主が再び来られるときにキリスト者がそれに与かるであろう、主の復活の栄光を先取りする出来事として祝われている。

 これに対して四旬節第2主日には、第一朗読では『創世記』(22:1-18)が読まれ、アブラハムが独り子イサクを神に献げる話が語られる。また、第二朗読では『パウロのローマの教会への手紙』(8:31b-34)が読まれ、神が御子を死に渡されたことが告げられる。つまり「主の変容」という出来事をめぐって、ここでは「主の受難」という出来事との関連が強調されている。

 確かにマルコにおいて、「主の変容」の出来事(9:2-8)は、イエスによる最初の受難予告(8:31-9:1)と、イエスの死と復活に関する議論(9:9-13)の間に置かれている。「変容」によって示されたイエスの栄光に満ちた姿は、イエスの受難を通して初めて実現されるものだった。この両者の対照はあまりに甚だしいので、人間の理解を越えていた。イエスの受難予告を理解できなかったペトロは、栄光を地上に留め置こうとして無意味な提案をイエスにするが、この提案は無視される。なぜなら、イエスの歩む道は栄光に留まる道ではなく、十字架への道だからだ。このような無理解な弟子たちに対して、神は「これに聞け」と命じる。何を聞くのか。それはイエスによって繰り返し告げられる「受難」である。主の受難の意味を知ったなら、主と同じように弟子たちもその道を歩まねばならない。この苦難に満ちた道をひるむことなく歩み続けることができるように、主は前もって弟子たちに希望を与えた。それが「変容」の出来事である。

 ペトロの理解は不十分だったが、その喜びは確かなものだったろう。そしてその喜びは、主の復活を体験することによって、初めて道を歩む力となった。