四旬節第3主日(C年) 

 

福音=ルカ13:1-9


「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13:3,5

 

 きょうの福音は「悔い改め」について語る。旧約時代に預言者たちは繰り返しイスラエルの悔い改めを人々に訴えた。預言者たちは社会的不正や偶像礼拝から、神の定めた正しい道に立ち帰ることを求めた。悔い改めとは、自己の全存在をもって神へと方向転換することであり、それによって神との交わりを回復することである。

 イエスの時代のユダヤ教においても悔い改めが強調されていた。それは、メシアの到来がいつ実現するかはイスラエルの悔い改め如何による、つまりイスラエルが悔い改めれば神の国は近づくと考えられていたからである。

 洗礼者ヨハネは、旧約の預言者たちと同じように、イスラエルの民全体に悔い改めを呼びかけた。しかしながら、彼が直ちに悔い改めるように呼びかけた理由は、旧約の預言者とは異なる。ヨハネは、今、神の国が近づいているがゆえに、それをふさわしく迎えるために悔い改めを呼びかけた。悔い改めの根拠は他でもない、神の国の接近そのものにある。そして、彼は悔い改めを呼びかけるだけではなく、そのしるしとして洗礼を授けた。この悔い改めの洗礼は、イエスによる罪の赦し、すなわち救いへの準備をなすものだった。

 その意味で、イエスの宣教は洗礼者ヨハネのそれを受け継ぐものです。しかし、ヨハネとイエスの間には、はっきりとした違いがある。すなわち、イエスはご自分が来たことによって神の国が実現し始めていると主張した。悔い改めはもはや律法への忠実ではなく、イエスに従うことへの呼びかけとなる。

 神はご自分に立ち帰るように人間に呼びかけるだけではなく、立ち帰る力をも与えてくださる。イエスにおいて新たないのちが与えられ、それによってイエスに従って生きることができるようになる。そのように考えるなら、新約における悔い改めは人間に対する神の命令というよりは、むしろ神の恵みであることがわかる。だからこそ、悔い改めの要求がいかに厳しいものであっても、それは喜びとなる。そしてそれが恵みであるからこそ、救いはすべての人に開かれている。

 きょうの福音の前半ですべての人に呼びかけられる悔い改めは人間の努力の結果ではない。それは神の招きなのだ。神の救いは自力で得られるものではない。救いは神ご自身が用意してくださる。神の救いとはそれほど確かなものなのだ。