四旬節第4主日(B年)

福音=ヨハネ3:14-2


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16

 

 今日の福音は、この世に向けられた神の愛を語る。神は人を永遠の命へと招こうと独り子を世にお与えになった。独り子イエスは、ことばと業で神の心を人々に知らせようとされたが、それでは足らず、自ら十字架に上がり、神の愛を人々に示された。したがって、「独り子を与えた」とは、受肉だけを意味するのではなく、十字架の死をも指している。

 ところでヨハネは「世」をどのように捉えているのだろう。ヨハネ福音書には、今日の福音に見られるような、神の愛の対象としての「世」とは相反する否定的な意味での「この世」とか、神に敵対する「世」という表現が後半部分に数多く見られる。それではヨハネは「世」を、被造物としての「世」と神に敵対する「世」、あるいはイエスを信じる「世」の一部とイエスを否定する「世」というように二重に捉えているのだろうか。今日の福音における、神の愛の対象としての「世」とは、イエスを拒否する以前の「世」なのだろうか。

 こうした二元論的な理解は、決してヨハネの主張するところではない。ヨハネにとって「世」とは神の被造物であり、救いの啓示の舞台であると同時に、その救いの啓示および愛の対象なのだ。しかし、「世」はイエスを拒否することにおいて世の頭につき、その支配下に自らを置くことになる。このような「世」の動きに対して、イエスが栄光に上げられることが御父の栄光を輝かせ、それによって世の頭は裁きを受け、その力は失われる。つまり、神の栄光の働きの度ごとに、「世」は救いの対象とされると言える。このことは、神の愛が常に「世」を救いの対象として働いていることに他ならない。したがって、神は常に「世」を愛し、救おうとなさり、その度に「世」の拒絶が生じるが、究極的には、神はそのような神を拒絶する「世」をも愛の対象とされる。

 それでは、このような「世」に対する神の愛と、御父とイエス、イエスと弟子たち、そして弟子たち相互の愛はどのような関係にあるのだろう。ヨハネにとって「愛」の源は、御父と御子の間の愛なのだ。そうであるなら、神の「世」に対する愛は、御父と御子の間の愛に基づいていると言える。言い換えれば、神の「世」に対する愛は、御父と御子の間の愛の現れなのだ。そして、私たち相互の愛は、このような神の愛に参与するものであり、私たちの間に愛が現される度ごとに、「世」は神の愛によって変えられていくのである。

 「世」の救いとは、私たちの日常生活と無関係なところで実現されるのではない。私たちがそれぞれの生活の場で愛を現していくことによって、「世」が変えられていくのだ。