四旬節第4主日(C年)

 

ルカ15:1-3,11-32


「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20

 

 きょうの第二朗読の『使徒パウロのコリント教会への手紙』では、神が「キリストによってわたしたちをご自分と和解させた」ということが繰り返し語られている。この「和解」という視点から、きょうの福音である「放蕩息子のたとえ」を考えてみよう。

 「放蕩息子のたとえ」は父親と放蕩息子(弟)の関係が中心をなす話だが、もう一つの関係として兄と弟の関係が考えられる。聖書は「兄弟」という関係に特別な関心があるようで、その一つに「カインとアベルの物語」(創4:1-16)がある。この「カインとアベルの物語」と「放蕩息子のたとえ」を比較すると、神による「和解」ということの意味が浮かび上がってくる。まず両者を比較すると、次のような共通点と相違点がある。

 兄カインは神の恵みの不公平さに対して怒り(A)、弟アベルを殺す(B)。それに対して神はカインを裁いて(C)、彼をさすらう者とした。

 イエスのたとえ話に出てくる兄は父の兄弟に対する対応の不公平さに対して怒る(A)。それに対して父が兄をなだめる(C)。イエスは、彼が罪人たちに示した態度に対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を言い出した(A)のを、このたとえ話でなだめようとした(C)。たとえ話では、その後の兄の行動は語られていないが、イエスの言動に怒った(A)人々は、結局イエスを殺してしまう(B)。

 

 両者の話に共通する要素は(A)「怒り」、(B)「殺害」、(C)「神の介入(裁き・なだめ)」であるが、両者には大きな相違がある。「カインとアベルの物語」は「(A)怒り→(B)殺害→(C)神の介入(裁き)」だが、「放蕩息子のたとえ」は「(A)怒り→(C)神の介入(なだめ)→(B)殺害」である。しかも前者における「神の介入」は「裁き」として現れるが、後者における神の介入は「なだめ」すなわち「和解」として現れる。ここに旧約と新約の相違がある。後者の「殺害」も前者と同じく「怒り」の結果として起こったが、前者では「殺害」の後で「神の介入」があるのに対して、後者では「怒り」と「殺害」の間に「神の介入」がある。そうであるなら、後者における「殺害」にはすでに「神の介入」のあとが見られるはずだ。言い換えるなら、「殺害」は神の「和解」の計画のうちにあるのだ。ここに十字架の意味が示されている。人間の目にはむごたらしい「殺害」にしか見えない十字架上のイエスの死は、神が御子によって人間との間に成し遂げた「和解」にほかならないのだ。

 レンブラント63歳頃の作。父のもとに帰還する息子は、若くして成功しながらも妻サスキアの死やオランダの急速な景気降下を境に没落していった画家の人生を彷彿させる。またこの頃、生存していた最後の息子ティトゥスが急死した。放蕩息子を抱く父親は画家自身の姿と解釈される。