四旬節第5主日(B年)
福音=ヨハネ12:20-33
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)
今日の福音は、「イエスにお目にかかりたい」と願うギリシア人に対するイエスの答えが中心になっている。ところで、イエスは迫りつつあるご自分の受難について語るだけで、ギリシア人たちの願いを無視してしまったのだろうか。この願いに対する直接的な答えは最後のほうではっきり示される。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」(32節)
イエスが「地上から上げられるとき」とは、「十字架に上げられるとき」であり、それはヨハネ福音書においては同時に「天に上げられるとき」でもある。すなわち、イエスの死は同時に栄光の時でもあるのだ。すべての人が真にイエスと出会うことができるのは、まさにこの「時」である、とイエスは語る。イエスはご自分の受難の意味を説き明かすことによって、イエスに会うことを求めるギリシア人たちの願いに答えているのだ。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)
死んで豊かな実を結んだイエスと深く結ばれることによって、イエスに従う人々も実を結ぶことができるようになる、とヨハネは語る。しかしながら「実」とは、決して人が自分の力で生み出す「生産物」ではない。「実」とは、生命の自然な成長によってもたらされるものなのだ。「実」を結ぶ力は人間に由来するものではなく、人間の思い通りにはできない。単に業績を上げるということなら、人間の力だけで可能かもしれない。だが、神が望んでいる「福音の実」を育てるためには、人間はイエスの死によって神に結ばれたことをまず認めなければならない。命の源である神と結ばれているなら、そこから生きる力が流れ出て、信じる力が与えられる。この力が「実」を育ててくれる。だから、私たちは「実」の成長をあれこれと思い煩うことなく、全力を出して生きることができるようになる。
キリストの体に結ばれ、キリストの霊に動かされ、キリストと共に生きる恵みに与かった人は、「あたかもひとりでに」実を結ぶようになるという。収穫は必ず与えられ、その実は残って永遠の命を与える(ヨハ4:36; 15:16)。「実」はあくまでも恵みとして与えられるものなのだ。「実」という結果をあれこれと思い煩うことなく、必ず「実」を育ててくださる主に信頼して、全力で主について行こう。
カトリック高蔵寺教会