年間11主日 C年

福音=ルカ7:36-50


「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる」(ルカ7:47

 

 イエスの教えの中でも「敵を愛しなさい」(ルカ6:27)という教えは最もよく知られているものの一つだろう。この「愛敵」の教えは「相互互恵」の原則に基づかない愛の勧めである。そしてこの愛は「神が憐れみ深い」ことに倣うものである(ルカ6:36)。
 きょうの福音に登場する「罪深い女」がイエスに表した愛は、まさにこの「相互互恵」の原則に基づかない愛の実例と言える。これと対照的にファリサイ派のシモンは「相互互恵」の原則に囚われている。当時のラビたちは、神に対する負債も計量的に多い少ないで説明する場合が多かった。だが、神の豊かな愛は、「相互互恵」の原則をはるかに越える。神は、罪人の心に神への愛があるから、その報酬として罪を赦してやる、というのではない。「愛敵」の教えに示されているように、相手が自分を愛そうが愛すまいが相手を愛するのである。「罪深い女」は、イエスが罪を赦す、赦さぬに関わりなく、接吻し続けて愛をあふれさせる。「愛敵」の教えにおいて、相手が赦す、赦さぬに関わりなく愛する豊かな愛は、神の愛の現れである。同じように、罪深い女の豊かな愛は、神の愛の現れであり、彼女の涙ながらの愛は、神の憐れみの愛、罪の赦しの愛の証しである。
 確かに、罪深い女によるイエスへの愛は、彼女に対する神の愛の具体的な表れと言える。だが、「罪を赦されたから彼女は愛する」と「彼女が愛するから神は罪を赦す」という二つの事象はどちらが先というのではなく、同等に成り立つのである。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(7:47)は、裏返せば「愛することの少ない者は、赦されることも少ない」となる。それが、ファリサイ派への警告となっている。

きょうの福音に登場する「罪深い女」(娼婦)は「マグダラのマリア」(ルカ8:2)と同一視されるようになった。当時のマグダラの町は、ガリラヤ湖の漁業センターのような場所であり、娼婦たちで有名な町でもあった。したがって、「マグダラの誰それ」と言えば、あの「娼婦街の誰それ」を意味した。