年間第13主日A年

福音=マタイ10:37-42


「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(10:38

 

 マタイ10章において、イエスは十二人の弟子を選んで、彼らに宣教についての指図をあれこれと与える。しかし、マタイにおいては、弟子たちが実際に宣教に出かけるのは、イエスがこの世を去られた後のこととして理解されている。したがって、イエスがこの世に生きておられる間は、弟子たちにとっては、いわば宣教の実習期間と言える。イエスが与える宣教についての指図を一言で言うならば、「弟子は先生のように」(10:25)行うということである。つまり、弟子たちの宣教活動は、先生であるイエスの宣教活動を継続するものなのだ。

 

 イエスは、この宣教には人々の無関心、敵対や迫害が伴うことを繰り返し語る(10:22)。そして、このような対立は、家族の中にすら生じると言う(10:21,35-37)。それはイエス自身が経験しなければならない対立や迫害と重ねて語られている。その意味で、弟子たちが受ける迫害の予告は、イエス自身の受難予告でもある(10:38)。

 

 イエスはこのように弟子たちに覚悟を促すとともに、励ましを与える(10:22,31,39)。そして、イエスが派遣した弟子たちを受け入れる人の報いを弟子たち自身に語ることによって、イエスは弟子たちを励ます。弟子たちを受け入れる人とは、「主の名のために受け入れる人」のことである(10:41,42)。

 そもそも、「主の名をイスラエルの上に置く」とは、「主とその民の間に“平和”(シャローム)を置く」ことを意味する。“平和”(シャローム)とは見せかけの平穏無事ということではなく(10:34)、「主の名のために受け入れる」ことによってもたらされるものなのだ。そして、主によって置かれる“平和”(シャローム)はその民によって生きられねばならない。「小さい者」とともに生きようとするとき、そこに主の“平和”(シャローム)が実現する(10:42)。