年間第17主日A年

福音=マタイ13:44-52


「弟子たちは、『分かりました』と言った」(マタイ13:51

 

 マタイ13章において、「天の国」はさまざまな表現によってたとえられている。そこでは、「天の国」がどういうものであるかが抽象的に論じられているのではない。「天の国」がどのように実現していくのか、それにはどのような働きが必要なのかということが論じられている。このような視点からマタイ13章の「天の国のたとえ」は次のように三つに分けられ

る。

 (1)神の働き:イエスの宣教活動(年間第15主日の福音)

 (2)人間の働き:弟子たちの宣教活動(年間第16主日の福音)

 (3)神と人間の働き(年間第17主日の福音)

 つまり、「天の国」は、神の働きと人間の働きという両者が相まって、初めて実現するものなのだ。それでは、神の働きと人間の働きとは何なのか。

 今日の福音の骨組みだけを直訳風に示すと次のようになる。

44節 天の国は似ている、畑に隠された宝に

45節 天の国は似ている、良い真珠を求めている商人に

47節 天の国は似ている、海に投げられた網に

52節 天の国に対して弟子となった者は似ている、自分の宝から新しいものと古いものを投げ出す一家の主人に

 

 「天の国は畑に隠された宝に似ている」-「天の国」という宝は隠されてはいるが、すでにこの世にある!-神の恵みは人間が求める以前にすでに与えられている。天の国実現の主導権は根本的には神の側にある。この恵みにどう応えるかが、人間に問われてい

る。

 「天の国は良い真珠を求めている商人に似ている」-神の恵みはすでに与えられているからといって、人間は天の国の実現をただぼんやり待っていればよいというのではない。天の国の実現を熱心に求めることが必要とされる。ここでは人間の側の働きが強調される。

 「天の国は海に投げられた網に似ている」-弟子たちの宣教活動は「人間を漁る」ことにたとえられる。「海に網を投げる」とは、このような人間の働きなのだろう。それは神の恵みの業であると同時に、終末における裁きをも意味する(49-50節)。

 「天の国に対して弟子となった者は自分の宝から新しいものと古いものを投げ出す一家の主人に似ている」-「天の国に対して弟子となった者」、ここでの「天の国」とはイエス自身のことなのだ。イエスという宝に出会った人は、自分の宝を投げ捨てる。「耳のある者は聞きなさい」(43節)-「天の国」の実現への第一歩は、イエスの呼びかけに素直に「はい」と答える(51節)ことなのだ。