年間第20主日C年

福音=ルカ12:49-53


「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ12:49

 

 イエスが語る「平和」とは心の「平安」とか日々の「平穏無事」のことではない。これらは確かに必要なものではあるが、今日の福音はこれとは全く異なる視点を私たちに提示する。

 エレミヤは、「平和」を実現するために敢然と自らの「平穏無事」を捨て去った(今日の第一朗読を参照)。イエスもまたしかりである。

ところで「平和」には対をなす言葉がある。イエス誕生の際に、天上からの賛美の言葉は「天に栄光、地に平和」である(ルカ2:14)。「天に栄光」とは、神が神とされ、人が人とされることを意味する。神に対する最も重い罪は傲慢である。傲慢とは、人間が神の救いを必要とする存在であることを忘れることである。これを忘れた時に何が起こるかは、これまでの人間の歴史が余すところなく物語っている。この対句から「地に平和」をもたらすためには何を必要とするかが自ずとわかる。

今日の第二朗読は、耳に痛い言葉を私たちに投げかける。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブ12:4)。キリスト者とは「イエスの弟子」のはずだ。イエスはなんと言われるか。

「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(ルカ12:50)。

苦しみは救いを成就するための積極的な働きである。それゆえ、苦しみは救いの訪れを告げるものでもある。

「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12:49)。

イエスが願うのは見せかけの平安ではない。見せかけの「平安」が火で焼かれたあとにしか現れない真の「平和」である。