年間第23主日(A年)
マタイ18:15-20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)
マタイ18章は、冒頭(1-5節)で述べられた内容が相互に関連を持ちながら、以下のように巧みに展開されていく。そこには「小さい」という言葉が持つ肯定的な意味と否定的な意味の両者が複雑に織り込まれている。
1-5節において、イエスの弟子として要求されているのは、次の二点である。
①子供のような「小さい者」となる。
②子供のような「小さい者」を受け入れる。
ここで言われている「小さい者」とは、イエス自身の姿でもあり、否定的な意味のものを逆転させて肯定的な意味で使われている。
6-9節では、「小さい者」をつまずかせる「世」への対処が語られる。「世」とは、イエスの歩みを妨げるものであり、イエスを信じて後に従う弟子たちの歩みを妨げるものである。しかも、こうした「世」の妨げは、教会の外にあるだけではなく、教会内部にもある。「手」「足」「目」とはキリストのからだとしての教会の部分を表している。「世」の妨げに対しては、それが外にあろうと内にあろうと、断固とした対処が求められる。
10-14節では、「小さい者」が滅びに至らないように、教会に配慮が求められる。それはなによりも天の父の御心による。
今日の福音である15-20節では、「つなぐ」「解く」ことが教会に求められる。罪を犯した兄弟(否定的な意味での「小さい者」)に対しては、立ち返るように努力しなければならないが、それを拒む者には断固とした対処が必要とされる。その意味でこの箇所は、先に述べられている6-9節と10-14節の両者を受けていると言える。このような教会が「つなぐ」「解く」ことができるのは、教会-二人または三人がイエスの名によって集まるところ-にイエスご自身が共におられるからなのだ(1:23、28:20)。
カトリック高蔵寺教会