年間第23主日(B年)

福音=マルコ7:31-37


「(イエスは)天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」(マルコ7:34

 

 第一朗読で読まれるイザヤの預言は、神の現われが荒れ野を豊かな地に変え、病人たちには健康をもたらすという比喩を使いながら、神の恵みを美しく歌う。これらの事象はメシア到来のしるしと考えられるようになった。きょうの福音は、こうした神の救いに対する期待がイエスによって実現されたことを示す出来事の一つとして語られる。イエスが行われた奇跡は、まさに神の現われ、つまりイエスこそメシア(キリスト)であることを示す。

 古代にあっては、健康な成人男性のみが社会の正規の構成員とされた。女性・子ども・高齢者・心身に障害のある人などは一人前とは見なされず、差別された。文明の進歩はそうした差別を徐々に克服してきたが、残念ながらまだまだ不十分である。聖書は創世記冒頭で「神の似姿としての人間」という人間論に基づく「人権」思想を掲げるが、その後のキリスト教の歩みは理念通りには進まず、紆余曲折を経ることになる。現代では「共生」(シンビオーシス)という言葉がよく使われる。それは単に人間のみではなく、地球上に生きるすべてのものにまで広げられる。それはカトリック教会の教えの中でも教えられる。神の似姿として創られた人間には、他のすべての生き物に対しても責任を負わされている。

 イザヤの預言が語る、人と自然との共生は、神の意志であり、それは私たちの目指すべき理想であり、そこにこそ救いの成就-神に国の実現がある。苦しむ人、悲しむ人の呻き、自然が発する声なき声を聞く耳を持ちたい。

神学生時代、世田谷区にある喜多見教会で3年間、主日ミサの手話通訳奉仕をしました。ちょうどその頃、全国のカトリック聴覚障害者の会の方々や神学生の先輩たちと一緒に手話によるミサ式次第の研究を重ね、『手話でささげるミサ』が出来上がりました。