年間第23主日C年

福音=ルカ14:25-33


「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカ14:33

 

 宗教は、この世から「離脱する」システムを持っている。仏教的な表現をすれば、それは「出家」である。「出家」とは「家を出る」と書くが、家を出るとは世間から身を引き離すことである。

 キリスト教における修道生活は砂漠で始まった、彼らは「砂漠の師父」と呼ばれ、その中で特に有名なのが聖アントニオである。彼はある時、「すべてを捨てて私に従え」という聖書のことばに導かれて、文字通りすべてを捨てて砂漠へ出て行った。しかし、彼のもとには彼の聖徳を慕って、多くの人々が訪ねてきた。時には、重大な問題を解決するために、彼はわざわざ砂漠から出かけて行くことさえあった。彼は砂漠にあって世から距離を置いていたが、人々に仕えることによって、逆に世に身をさらしていたとも言える。彼にとっての「出家」とは「身を世に捨てる」ことだった。

 今日の福音は、私たちに「身を捨てて」、「世を捨てて」イエスに従う覚悟を促す。いわば、イエスによる「出家」の勧めである。「出家」と言っても、なにもすべての人が司祭や修道者になれという勧めではない。「身を捨てる」とは「自分だけは」という価値観から解放されることだ。現代世界は、「自分だけは」、「自分の○○だけは」という価値観に支配されている。そういう意味で今日の福音は私たち一人ひとりにかなり厳しくチャレンジする。

 だが、忘れてならないことは、私たちは洗礼によってすでに「世を出る」恵みを受けているということである。「世を出る」とは、聖アントニオのように世から距離を置きながら、逆にキリスト者として身を世にさらす生き方である。その意味でキリスト者はすべて「出家者」、「世にあって世を出た」人と言える。「世を出る」生き方は司祭や修道者の特別な生き方ではない。この「世にあって世を出る」、「世を出て世にある」という逆説的な生き方が自覚的に生きられるときに初めて「信徒の時代」が実現するのだろう。