年間第26主日(B年)
福音=マルコ9:38-43,45,47-48
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ9:40)
きょうの福音を読むと、ある程度「教会」の権威が成立している状況がうかがわれる。イエスが言う「はっきり言っておく」とは文字通りには「アーメン、私はあなたたちに言う」である。福音の直接的文脈における宗教的伝統の正式な権威者は「律法学者やファリサイ派の人々」であるが、「生活の座」の文脈では、成立しつつある「教会」である。そこには制度的教会の権威に対抗するカリスマ的権威の主張がある。そもそも「カリスマ」という用語自体が新約聖書に由来し、まさに「聖霊の賜物」を意味する。組織の承認を受けていない諸個人が持つ権威のことである。彼らの主張は、個人に直接神から与えられたとされる権限に基づく。キリスト教には「秩序の霊」と「預言の霊」という二つの伝統があり、両者は常に緊張関係にある。「秩序の霊」によれば、聖霊とその賜物すべては教会組織の内部に限定されている。教会そのものが聖霊の創り出したものと考えられる。したがって、聖霊に触れることができるのは教会とその秘跡を通してのみ、ということになる。カトリック教会は、「奇跡」の可能性は広く認めるが、その認証(手続き)は非常に狭い。教会の制度化された「恵みの手段」を脅かすようなことは許されない。
「預言の霊」によれば、聖霊は制度的な教会の内であろうと外であろうと自由に出現するものであり、しばしば教会に対立することさえある。聖霊は教会という制度的媒介なしに直接に体験できるということである。
社会学的に言うと、これら二つの対立する聖霊理解は、それぞれ祭司と預言者に帰することができる。この二通りの宗教的指導者像は、古くさかのぼる長い対立の歴史を持つ。きょうの第一朗読(民11:25-29)もこうしたテーマを扱っている。教会の歴史においても、たとえばカリスマである聖フランシスコと制度的修道会であるフランシスコ会の緊張関係が一例として挙げられる。教会権威者は、創立者のカリスマを「修道会」という教会制度の中に取り込むことで「秩序」を維持してきた。取り込めないカリスマは「異端」として排斥した。これをM.Weberは「カリスマの日常化」と呼ぶ。
カリスマの権威はきわめて個人的、直接的であり、また並外れたものである。だが、そのような権威はどうしても限られた持続時間しか持たない。社会学的には、カリスマ的な経験の洞察や信仰の形を与えなければならない。そこで起こるのは「個人のカリスマ」(「私は言う」)から「地位のカリスマ」(「教会は言う」)への転換である。祭司が預言者に取って代わる。別の言い方をすれば、カリスマが「日常化」される。普通でなかったことが普通のことになる。かつては日常生活の流れを止めるような驚くべき事態だったものが、いまや毎日の生活の決まりきった出来事になってしまう、ということである。
カトリック高蔵寺教会