「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(ルカ16:22)
今日の福音では、生前に苦しんだ「貧しい人」ラザロは「アブラハムのふところ」に運ばれ、「貧しい人」を顧みなかった金持ちは、死の国で苦しみに会う。「神の民」として認められたのは、金持ちではなく「貧しい人」ラザロの方だということである。
聖書が語る「神の民」には、三つの大きな局面がある。
①「わたしの民」となる:約束の地に定着→王国
②「わたしの民」に与えられたプログラム:「神に従う者」
③地上で「神の民」となろうとする時の迫害:「貧しい者」
「神の民」の歴史には二つの大きな解放運動がある。
1)出エジプトによる解放→①へ …解放運動の力:ヤーウィズム
2)キリストによる解放→②へ …解放運動の力:ナザレのイエス
しかし、②へと方向づけられたにもかかわらず、キリスト教がローマ帝国の国教となることによって、教会は①への道をたどった。それがどういう道だったかは歴史が証言している。②への道をたどる時、迫害を受けて「神の民」は「貧しい者」の姿をとるはずである。もう一つ大切なことは、「神の民」とは運動体であるということだ。運動体であるならば、その運動体の力は何かということが問われねばならない。それは最終的には「ナザレのイエスとは誰か」という問いに行き着く。